紫音の夜 10~11(最終話)
初めて聞いた真夜のフリーソロ――とどまるところを知らず、誰にも止められず、遥か彼方にかけ抜けていきそうだった。
高揚感が戻ってくるのを肌に感じながら、葉月は言った。
「真夜の音色は、ずっと聞けるものだと思ってたよ。やっと声も戻ってこれからだって。あの練習の毎日が永遠に続いてほしかった」
「僕もだよ」
真夜はいじっていたふたを開けて、酒を口に含んだ。
無理に飲もうとしているのか、口の端から黄色い液体がこぼれ落ちる。
限界の量はとっくに超えているのだろう。
葉月は瓶を取り上げた。真夜は口元をぬぐって言った。
「僕も……あの瞬間が永遠であってほしかった。もう一度生まれ変わってでもやりたいって思う。でもね、高木さんは年内にはニューヨークに飛んじゃうし、伶次さんも来年のコズミックはないでしょ。今がやめどきなんだ」
真夜の広い額を冷たい夜風がなでていく。遠い目をしている。
葉月は瓶のふたを開けると、口をつけた。
グレープフルーツの酸っぱさのあとに、ジンリキュールの苦さが襲ってくる。
喉が焼けるように熱くなった。
思わず「にがーい」と言いながら、真夜の前に瓶をさし出した。
「神の水、飲む?」
「やめときます」
瓶のふたをきつく締めると、手の上で転がしながら言った。
「そういえば薬はやめられたみたいだね。いいピッチしてたよ」
「葉月さんの耳には感服です。神が宇宙の目で僕を見張ってたからね。悪いことに手出しができなくなったんだ」
「なにそれ」
「コスモ教だよ。葉月さんも入るべきだよ」
酒のせいなのか、話がおかしくなってきた。
コスモ教は信じないけれど、薬を絶ったことは信じようと思った。
むかいのオフィスビルの明りがひとつ、またひとつ消えてゆく。
ミッドナイトブルーの空が濃さを増していく。
ブルー・ノートの前以外は、ほとんど人の通りがなくなった。
夕刻時には排気ガスを撒き散らしながらひしめきあっていた車の列も、スムーズに流れ始めている。
街の明かりに負けていた星たちが、少しずつ姿を現していく。
瓶を置いて立ち上がろうとしたそのとき、一本の銀色の糸が空を横切った。
目を疑ったが、楽器の音色のように、夜空にその余韻を残していた。
「真夜、流れ星!」
空を指さしながら反対の手で真夜の肩を揺すると、面倒臭そうに立ち上がった。
「うそ言わないでよ。こんなところで見えるわけないでしょ」
「本当だってば。今、流れていったんだから。くやしいなあ、もう一回流れて……」
不意に真夜が葉月のあごをつかんだ。冷たい指をしていた。
力に逆らう間もなく、真夜のくちびるが頬にふれた。
皮がむけてざらついた感触と吐きだされる息の熱さが伝わってきた。
ぬくもりが胸の底を突き抜けていく。
真夜はあっさり手を離すと、何もなかったように空を見上げた。
葉月はゆっくりと頬を手で押さえた。
「神様に……見張られてるんじゃなかったっけ」
「神はたった今、よそ見をしておられた」
「都合いいんだから」
葉月は頬をなでた。
鼓動が静まらない。真夜は空ばかり見ている。
「その証拠に神はひとつ星を落とされた」
葉月の瞳にはまだ流れ星の残像が残っている。
真夜と初めて話をしたのも、こんな夜だった。
外は寒いのに体は熱くて、星がたくさん流れていた。
握手を求めると応じてくれた。
細い手首に似つかわしくない大きな手のひら――この手がアルトサックスにふれることも、もうないのだろう。
一緒にステージに立つことも、こうして二人で夜の闇に立つことも――
ブルー・ノートの表看板の明りが消えた。闇の中に薄紫色が溶けていく。
無人となったビルディングの輪郭が空と地上の境をふちどっている。
冷たい風が真夜の短い髪をさらい、熱の引かない葉月の頬をなでていった。
握る手を離したくなかった。
もう一度、星が流れることを願って、夜空を見上げた。
(完)
作品名:紫音の夜 10~11(最終話) 作家名:わたなべめぐみ