紫音の夜 10~11(最終話)
11.つないだ手
日が沈み、高層ビルを覆う空が青紫色に染まる頃、葉月たちは『コズミック・ジャズ・フェスティバル』の本番を待っていた。
一年前は観客として店の前に並んでいたのに、こうしてステージの上に立ってリハーサルに臨んでいることが未だに信じられなかった。
スタッフの指示を仰いでマイクチェックをしている間も、足元には浮遊感がついてまわった。
階段状になった客席に、他の大学からの出演者が数多く座っている。
ビッグバンドのコンテストで見た顔ぶれや、あちこちのライブハウスに顔を出しているプレイヤーたちが談笑している。
リハーサルの時点で威圧されそうになって息を飲んでいると、うしろからぽんと背中を叩かれた。
サウンドチェックを終えた伶次が、余裕のある笑みを浮かべている。
会場入りしたときから、ひっきりなしに声をかけられていて、彼の顔の広さを思い知らされた。
真夜はというと、落ち着きなくマウスピースを咥えたり、マイクの向きをいじったりしている。
今朝になって、葉月は声を取り戻した。
徐々に回復すると思っていた葉月には、あまりにあっけない終焉だった。高音域はかすれるものの、もう少し喉を温めれば楽に発声ができそうだった。
肩の力が抜けてちょうどいい加減だ、と伶次は言った。
葉月も同じことを思った。
喉の筋肉にかかっていた力みもなくなって、まるで自分の体がひとつの楽器になったように歌声を響かせられた。
テーブル席が整えられ、ステージのまわりに散在していた小道具が片づけられていく。
足元に張り巡らされた蜘蛛の巣のような配線がまとめられていく。
巨大な照明器具が頭上で青白い光を灯す。
葉月はリハーサルの重苦しさから逃れるように、店の外に出た。
薄紫色の下地に白抜きの文字で、ブルー・ノートの看板が掲げられている。
二時間後には、葉月はマイクを握り、真夜はアルトサックスを持って青く染まるステージに立つ。
順番待ちの列の中から風子が飛び出してきた。
全席が自由席になっている今回のライブで、最前列を確保するために開場前から部員たちが並んでいる。
葉月の首からぶらさがっているストラップを見ると、風子は手を取って言った。
「やっぱりテナーサックスで出るのね。葉月の歌、聞きたかったけど、また次もあるからね。次も絶対、聞きにいくからね」
妙ななぐさめかたをされて、葉月は顔をかいた。
「あー声ね。でるようになったの。ちゃんと歌うし、テナーサックスも吹くから」
そう言うと、風子は目を丸くした。
ただでさえ大きいどんぐり眼が飛び出しそうになっている。
「言うの忘れてた、ごめん」と葉月が苦笑いすると、風子は見る間に瞳をうるませて葉月に抱きついた。
「もーどんだけ心配したと思ってんのよ! でもよかった、よかったね!」
人目をはばからず、風子はわあわあと声を上げて泣き出した。
しがみついてくる彼女の体を引きはがしながら戸惑っていると、そばにいた部員が最前列まで走っていき、一緒になって「やったなーばんざーい」と大声で叫んだ。
オフィスビルが多いこの界隈を通過していくサラリーマンや制服姿のOLたちが何事かと視線を送ってきたが、エネルギーの有り余っている大学生たちはここぞとばかりに腕をふりあげて歓喜の声を上げた。
恥ずかしさと嬉しさが入り混じる感情をかみしめながら、風子と手を取りあった。
列の中から強烈な視線を感じてふりかえると、真夜の彼女がこちらを見ていた。
葉月がゆっくり微笑むと、彼女はきつく睨みつけてから顔を反らした。
本番中も不服そうに眉をしかめて見られるのかと思うと、気が重かった。
出演者でぎゅうぎゅう詰めになった楽屋の中で、真夜はアルトサックスをぶらさげたままぼんやりしていた。葉月はうしろから声をかけた。
「あのさ、私ってなんであんなに彼女に嫌われてるのかな。コンボのヴォーカルやってるってだけで、まともに会話したこともないし」
彼女とは誰のことなのかすぐに思い当たったらしく、真夜はふりかえった。
「僕がよけいなことを言ったからだと思う」
「何を?」
真夜はストラップから楽器をはずしてカウンターに置いた。
「葉月さんは僕のこと知らなかったみたいだけど、僕は葉月さんを知ってたよ。去年の学祭で、テナーサックスを吹いてるのを見たんだ。葉月さんがソロを吹いてる時に、あいつも隣にいたんだけど、うっかり『いい音だね』って言っちゃったんだよ。そのことを根に持って未だにねちねち責めてくるんだ。『じゃあ私と入れ替わってもらえば』ってさ。しかもあいつのテナーサックスは葉月さんと同じメーカーの同じ型番。呪われてるよね」
例の幽霊の真似をしながら舌を垂らしてみせた。
葉月はため息をつくしかなかった。
「うっかりって、いい音だってうっかり思ったってこと?」
「違うよ。本当にそう思ったから、うっかり口に出ちゃったんだよ」
緊張でぎりぎりと縛られたようになっていた体から、力が抜けていくようだった。
「あの時、隣で吹いてみたいって本当に思ったんだ。そしたらまさかの歌だったけど」
真夜はひとつ咳をして、ウッドベースを弾く真似をした。
葉月を勧誘したときの、伶次の物真似をしているらしい。
葉月は思わず吹き出してしまった。
「だから自信持って吹いていいよ」
「それ、そっくりそのまま真夜に言いたい」
こみ上げてくる笑いをこらえきれずにそう言うと、真夜も笑いながら「全くその通りだね」と言った。
本番直前になって、真夜が姿を消した。
楽屋にも舞台そでにも客席にもいない。
店の前で煙草を吸っている人たちが数名いたが、そこにも姿はなかった。
予想通りの行動だったが、ひとつ前のバンドの演奏が始まっても戻ってこなかったので、さすがに焦りを感じた。
伶次は舞台下でチューニングをしていたが、高木の姿もない。
どこかに探しにいっているのかもしれないと思った。
外はすっかり暗くなっていた。
店の裏通りに回ると、高木の背中を見つけた。
黒のブイネックシャツにカーキ色のカーゴパンツ姿で、腕を組んで立っている。
声をかけようと近づくと気配に察知したのか、ふりむいて指をさした。
その先には、室外機のかげにかくれて煙草を吸っている真夜の姿があった。
一応、しゃがんで身を縮め、身をかくしているつもりらしいが、立ち上る煙が丸見えだった。
逃亡者みたいだな、と高木は苦笑いしながら言った。
「これ、伶次にもらったのか?」
葉月の左手首には祥太郎の形見のブレスレットが巻かれていた。
兄貴が守ってくれるからと言って、待ち時間に伶次がつけてくれたものだ。
「じつは、俺も」
ロングTシャツの胸元を探って黒い皮のネックレスを取り出した。
ひもの長さは違ったが、もらったブレスレットと同じデザインのようだった。
高木は銀色のチャームをにぎりしめた。
「七年前のコズミックのとき……祥太郎さんが忘れていったものなんだ。ずっと俺が預かってた。伶次には内緒な」
うなずくと、高木は片目をつむって見せた。
作品名:紫音の夜 10~11(最終話) 作家名:わたなべめぐみ