紫音の夜 10~11(最終話)
テナーサックスを入れることになると、本番の持ち時間に収めるため、歌やソロの都合で構成が変わることになる。
これまで曲の構成を作ってきたのは伶次だったので、それが気がかりだった。
伶次は真夜が書いたくしゃくしゃの譜面を受け取りながら言った。
「いい演奏ができれば俺はそれでいい。真夜と葉月が三倍がんばればすむことだ」
「がんばります。真夜にも、鞍石さんにもこれ以上、迷惑をかけないように」
「だからさあ、伶次って呼んでほしいのに。真夜ばっかりずるいよ」
そう言って苦笑いをした。
伶次らしくないセリフに笑い声を上げると、彼も笑った。
調子の悪そうな体も、笑顔でいると治っていくように思えた。
伶次はレスポールのギターを取り出して、たどたどしい手つきで弾き始めた。
形はエレキベースに似ているのに、弦を探りながら素人のような音を出している。
「ギターを抱えてると、違和感ありますね」
「トランペットも、だろ?」
「あれはかなりおもしろかったです」
思い出し笑いをすると、伶次も笑顔を見せた。
「けっこう吹けると思ったんだけどな」
伶次は照れていた。あんなに不格好な姿を見るのは初めてだった。
プレイ中はいつも冷静で、取り乱すところも見たことがなかった。
何をやってもさまになる人だとずっと思っていた。
不意に何か曲を歌い始めた。先ほど聞いた鼻歌の旋律だった。
あいまいだったAコーラスのあとに、はっきりとした口調でサビにあたるBコーラスが始まった。
伶次の声に交じって、祥太郎の歌声が聞こえる。
会ったこともないのに、ギターを抱える姿まで目の前にありありと蘇るようだった。
ミスの音が混じるとその姿は伶次に戻り、高らかに歌うと祥太郎の表情が垣間見える気がした。
「これ、兄貴が作った曲なんだ。コズミックでやろうかどうか散々悩んだけど、歌がないと物足りないし、これ以上、葉月に負担かけられないしな」
「この曲、最後まで歌えます。必ず喉を治しますから、やりましょう」
CDに収録された曲の中で、最も好きな曲だった。「レット・ミー・シング」という言葉が何度も出てくる。
ミディアムテンポの優しい曲だが、歌いたい、もっと歌いたいという祥太郎の気持ちが強く伝わって、胸をしめつけるようだった。
伶次はうなずいて、再びBコーラスを歌い始めた。
――生まれ変わっても、ずっとこの歌を歌っていたい。
言語は英語だったが、口ずさんでいると、祥太郎が心の中に描いていた風景が眼前に蘇るようだった。
最後まで弾ききると、伶次は顔を上げた。
「こんな歌作るから、あの世に連れてかれるんだよ」
瓦屋根のむこうに陽が傾き始めている。 ベンチのうしろに長い影が続いている。
枯れ葉が足元で遊び、冬の乾いたにおいを乗せた風が伶次の頬をなでる。
夕焼け空を眺める瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
行く先も決めず、葉月は夜の繁華街をうろついていた。
駅で伶次と別れたあと、自宅の最寄り駅で下車せず、そのままこの辺りでは一番大きいターミナル駅まで来てしまった。
目的は何もない。ただ、家に帰りたくなかった。
葉月が喉を傷めて以来、なぜか兄の風当たりがきつくなった。
夕食を共にしても葉月からは一切声をかけないのに、「学生はお気楽でいいよな」「喉までつぶすなんて本当の馬鹿だよ」と暴言を吐いてくる。
普段は母親にむいている苛立ちのはけ口が自分に移っただけのことだと、頭の中では理解していても、何の手も打とうとしない父親と、助け舟すら出さない母親に恨みが募るばかりだった。
反論すれば、どんな剣幕で襲いかかってくるかわからない。
成人した兄相手に、自分ができることは何もなかった。
まだ十歳になったばかりの弟に、どうか矛先が向かいませんようにと願うばかりだった。
そういえば真夜も、激しい兄がいる、と言っていた。
中高一貫の男子校で目立っていたのなら、真夜も目をつけられたりと要らぬ苦労をしていたかもしれない。
クリスマス用にデコレーションされた靴屋のショウウウィンドウをぼんやり眺めていると、背後で聞き覚えのあるクラクションが鳴った。
誰かが名前を呼んでいる。
ふりむくと、路上にワンボックスカーが止まった。
下りたパワーウィンドウから顔を見せたのは高木だった。
「まだ帰ってなかったのか。伶次は?」
すっかり体が冷え切ってしまったせいか、思考回路がうまく働かない。
もごもごと説明していると、あわただしく高木が下りてきて、「とにかく乗った乗った」と言いながら葉月を車内に押しこんでしまった。
いつもなら心地よいBGMが流れているのに、珍しくステレオを切っている。
「たまに無音にしないと、耳がおかしくなるからな」
心の中を読むようにして高木は言った。
左右に並ぶ車の動きに合わせて、ワンボックスカーが動き出す。
前方に連なる車のブレーキランプを見つめながら、一体どこにむかうのだろうと靄がかった頭で考えた。
「飯食った?」
なめらかにハンドルを操作しながら、高木がつぶやく。
フロントパネルの表示を見ると、午後八時を回っていた。
夕食のことかと思い、葉月は首をふった。
「よし。近くにうまいラーメン屋があるんだ」
低い声でそう言って脇道に入ると、ぐっとアクセルを踏んだ。
疲れ切った葉月に、なぜあんなところにいたのかとは聞いてこなかった。
抑揚の少ない落ち着いた声が、静かに心を緩めてくれる。
中華街でラーメンや飲茶を食べて体を温めると、幾分か平常心を取り戻していた。
早く帰って体を休めなければ、真夜や伶次にますます迷惑をかけてしまう。
真夜から受け取った譜面に目を通さなければいけないし、祥太郎の曲を歌う約束もした。
今頃になって焦燥感が募る中、高木はどこかにむかって車を走らせた。
ライブのたびに通った道だったが、葉月の帰宅コースからはすっかりはずれていた。
高木は波止場に近い路上に停車させた。人気はなく、港から吹きつける風が体温を奪っていく。
ワンショルダーバッグを背負っている高木の背中を追っていくと、潮の香りが鼻をかすめた。
埋め立てて造られた波止場の一画に、大震災で崩壊した沿岸部のなごりが残されている。
来た道をふり返って夜空を仰ぐと、赤く光る砂時計のような形をした塔がそびえ立っていた。
高木はちらりとも見ずに、光の少ない敷地の方に向かって歩いていく。
その先にはただ、暗い海が広がっていた。
右手に見える巨大なホテルが、目がくらみそうなほどの照明を輝かせている。
高木がベンチに腰を下ろして煙草に火をつけた。
葉月は黙って隣に座った。
「夏場はカップルが多くて落ち着かないけど、さすがにこの寒さじゃ誰も来ないな」
そう言って煙を吹き出した。
「伶次はどうだった」
「煙草は吸ってたみたいです」
「やっぱりな。他には何か言ってたか?」
「お兄さんのオリジナル曲をやりたいって言ってました。私もずっとあの曲を歌いたいって思ってたんです」
「それは同感だ」
高木の低い声が静かな波止場に響く。
作品名:紫音の夜 10~11(最終話) 作家名:わたなべめぐみ