紫音の夜 7~9
観客のブーイングがほこりを舞い上がらせる。咳が出る。
ごめん、真夜。歌えない。頭が割れるように痛くて熱くて、涙が――
咳はすでに吐くという行為に近く、止めようとする意志は無意味に等しかった。
体がしたいようにさせて、悪いものを全部吐き出す。
酸素が足りなくて指先がしびれてくる。
頭の中に黒い靄がかかる。胸が苦しくて喉が痛くて、目頭が熱い。
視界がぼやけている。
「篠山さん……?」
真夜の声に反応して、咳と一緒に涙があふれ出した。
目を閉じる間もなく、しずくが頬を伝っていった。
止まらない。止め方がわからない。
顔をこすると頬が熱を持った。
肺が痙攣したようになって言うことをきかない。
息を吸おうとするとしゃっくりが出て、排気は咳になった。
ぶつかりあって上手く呼吸ができない。
大きく揺れる肩に、真夜の手がふれる。
「ほんとに泣かないでよ。ねえ、咳をするか泣くか、どっちかにした方がいいよ。酸欠で死んじゃうよ」
肩を持って顔を上げさせようとしたので、両手で顔をおおった。
涙がとまらない。真夜の力に逆らって首をふった。
咳に混じって嗚咽が漏れる。飲みこもうとすると、咳。息ができない。
体が膨張するような錯覚に襲われる。
「これ、篠山さんのタオルだよね。顔を拭いて、体を起こした方がいいよ」
タオルごしに真夜の指の感覚が伝わってきた。下をむいたまま、タオルに顔を押しあてる。
顔も手のひらも、涙と汗でべとべとになっている。
口にタオルを当てて息を吸った。真夜が顔をのぞきこんでくる。
「大丈夫?」葉月は首を横にふった。
「つらいの?」ゆっくりとうなずいた。
「どうしちゃったんだろうね」体が動かない。
真夜に声をかけられるたびに、涙腺がゆるんだ。
「いつか治るよ。たぶん」
それは何度も言われた無責任な慰めの言葉だった。
根拠のない優しさは、葉月の胸にくさびを打ち込む。
「いつかって、いつよ」
「そんなの僕は知らないよ。神のみぞ知る」
「じゃあいつかなんて言わないでよ」
老人のようにしわがれた声が、無責任に真夜を攻撃した。
頬についていた前髪をかき分けて、タオルから顔を離して言った。
「早く治さなきゃいけないから黙っているのに……声はますます出なくなる。
いつかなんて日は来ないんじゃないかって、悪い未来ばっかり考えてしまう。
……一生歌えなくなったらどうしようって思うと、すごく怖い。真夜には……わからないだろうけど」
喉をひっかく呼気と一緒に、次から次へと涙があふれ出る。
怖いと言う言葉が頭の中で響いている。
――そう、怖いのだ。歌えなくなってしまうことが。
自分に求められる存在価値は、ただそれだけだから。
伶次にとって高木にとって、そしてきっと、真夜にとっても――そう葉月は思った。
「わかるよ」
葉月を見て、真夜はつぶやいた。にごりのない透き通った瞳の色をしていた。
本番前、アルトサックスをかまえて天井を仰ぐときに似ている、迷いのない面持ちだ。
それは一瞬のことで、真夜はすぐに目をそらして落ち着きなく指を動かした。
「ごめん、うそ。わからない。でも、怖いのは僕も一緒だから」
真夜の声が静かに響いた。
葉月は両目にタオルを押しつけてうなずくようにかがみこんだ。
脳が酸素を欲しがって、無理に呼吸運動のシグナルを送ってくる。
弛緩した筋肉がついていかない。
ずっと音楽をやっていると、何のためにがんばっているのかわからなくなるときがある。
初めは楽しいからひたむきだったはずなのに、目標が大きいほど、いつからか苦しみを伴うようになる。
憧れて思い描く姿と、埋まらない現実とのギャップに悩み、自分を袋小路に追いこむ。
先は見えず、目の前は真っ暗でも、前に進むしかなくて――
仲間はいるけれど、最後は自分自身と向かいあい、思い通りにできないなら練習するしかない。
日々の行動は全てわが身に跳ね返り、失敗して情けない思いをするのも自分次第だ。
もっと上手く演奏できるはず、もっといいものを本番でできるはずだと信じて疑わない。
欲求はとどまるところを知らず、また満たされることもなく、常に新たな高みを目指して練習を続ける。
上手くできないのに時間だけが迫りくる中で、演奏の楽しみを忘れ、仲間のことも忘れ、自分一人がつらい思いをしているようなカタルシスに溺れる。
すぐとなりに、同じように苦しんでいる仲間がいるのに――
真夜の手が肩に乗っている。
咳をすると小鳥のように飛びのいたが、何度か葉月の背中をさすって元の位置に戻った。
彼の指がリズムを取って、遠慮がちに肩の上を遊ぶ。
彼の体温を感じるたびに思考が止まって、涙が出た。
冷えた指先と、熱を持った手のひらが同時に胸を焦がす。
「ねえ、篠山さん」
「……なに?」
「テナーサックスでコズミックに出ようよ」
葉月は鼻水をすすり上げた。
真夜は立ち上がって、隅によせていた譜面をあさった。
「ほらこれ、『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』ならミディアム・テンポだし、ソロも長くない。少し練習すれば、すぐに吹けるようになるよ」
渡されたのは真夜の手書きの譜面だった。
例によって、書き込みが雑すぎて読みづらい。
声が出ないなら、テナーサックスでコズミックに――考えもしなかったことだ。
葉月は首をふった。思考が全く追いつかなかった。
「テナーでコンボはやったことがないし、ソロなんてなおさら」
「僕、好きだよ。篠山さんの音。曲を選んでテナー用に書きかえるから、出ようよ」
腫れた目でぼんやり譜面をながめていると、真夜は次々に譜面を乗せてきた。
同じ曲でも何パターンかあるらしく、長くやりこんでいる曲ほど書き込みが多い。
テナーサックスで出るなら、歌う予定だったテーマを真夜と一緒に吹き、アルトサックスのソロの一部を葉月が担当することになる。
ビッグバンドの経験しかない葉月には、真夜のかわりに吹きこなせる自信などなかった。
「私が吹いたら、絶対に真夜の足を引っぱってしまう。それなら出ない方がいいよ」
そう鼻声で言いながら譜面を返そうとしたが、真夜は首をふって受け取らなかった。
「僕と一緒にコズミックに出よう」
真夜は眉をしかめた。くちびるを噛み、楽譜の両端を握ったままうつむいた。
返事ができないでいると、そのまま動かなくなった。
「お願いだから」
消え入るような声でつぶやいたあと、怖いんだ、と聞こえた気がした。
歌えなくなってから、何のためにコズミックを目指すのか、わからなくなっていた。
声も出ないのに、どうして出ようともがくのか。
出ることで私は何を得るのだろうと、ずっと考えていた。
頭をもたげた真夜のつむじが見える。
経験も実力も十分あるのに、本番のたびに信じがたい緊張をする。
そうやって長い間、コンボの看板プレイヤーとしてたったひとりでフロントを張ってきたのだ。