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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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紫音の夜 7~9

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 鍵盤のすみに小さなテンポ―マシーンが残されている。

 すべてが静かだった。通気口を出入りする風の音だけが鳴っていた。
 真夜の楽譜をよけて長椅子に腰を下ろす。
 息をつくと、その延長上に咳が出た。

 口に手を当てながら水の入ったペットボトルを探したが、一口分も残っていなかった。
 テナーサックスを吹いている間に飲みほしてしまったのを忘れていた。

 長椅子に戻り、咳をしながら体を折り曲げる。
 すでに咳止めの薬は効かなくなり、自分の体なのに止め方がわからなかった。

 しかしこの咳が体を治そうとしているのではと、なんとなく感じていた。
 喉に居座る具合の悪いものを外に追い出そうとしている――疲弊してしまった心の中からも、全部。

 ドアノブがおりる音に反応して顔を上げると、真夜が体とアルトサックスを半分だけ見せていた。しばらく待ったが、それ以上入ってこようとしない。

「真夜」

 声は音にならず、空気が喉をけずった。咳が誘発される。
 葉月が咳きこみ始めると真夜はスタジオの中に入ってきた。
 楽譜を床に置いて、アルトサックスを持ったままとなりに腰かけた。

「大丈夫?」
「……じゃない」

 顔をむけると、真夜は葉月をのぞきこむような目をしていた。

「咳が止まらないときは、大きくゆっくり息を吸うんだよ。ほら、こうやって」

 真夜は胸をそらし、息を吸いこんだ。
 葉月はこみ上げる咳を飲みこんで、酸素を取りこもうとした。
 腹式呼吸の練習をするときのように横隔膜を使うイメージで限界いっぱいまで吸い、息をとめる。
 一気に吐き出さず、腹筋で支えながらゆっくりと吐き出す。

 真夜は葉月のリズムにあわせて同じように呼吸し、大げさに体を前後させた。
 四、五回くりかえすと全身の疼きがおさまり、呼吸も落ち着いた。
 飲みこんだ唾が喉に痛みを与えて胃に流れ落ちる。

「痛いの?」

 真夜はあごを下げて、右手で喉元を押さえた。
 それを見て、自分の右手が喉を押さえていることに気づいた。
 そうすることで体の内側と外側の感覚が一緒になり、痛みが軽減する気がしていた。
 押さえたまま、痰を切るようにして喉を鳴らした。

 真夜は立ち上がってアルトサックスをパイプ椅子に置き、黒いフェイクレザーのトートバッグからミネラルウォーターのボトルを取り出した。

「飲みかけだけど、いる?」
「ありがとう……」

 ボトルを斜めにしてから、どうやって飲んでいたのか考えた。
 うまく飲み下せない。
 口の端から生ぬるい液体がこぼれていく。
 何の苦痛もなく、水が首筋をつたう。

 ボトルの先から口を離して首をこすった。
 となりに座った真夜の、開いたままの口から白いできものが見えた。

「サックス吹くと、痛そうだね」

 葉月が口元を指さすと、真夜はくちびるを噛んだ。
 組んだ手が軽く震えている。
 華奢で血管が薄く見えている手首を眺めながら、葉月は言った。

「……薬、何てやつ使ってるの?」
「ハイ・トゥリー」
「それ聞いたら、高木さん、怒るよ」
「そうだね。高木さん、怒ってたなあ」

 真夜は苦笑いをして横に寝かせたアルトサックスに視線を移した。
 手を握りしめ、口を右下に引きのばす。
 何度も、何度も――見ていると咳が出た。

 ――どうして。咳と一緒にしぼり出すような声が漏れた。真夜がふりむく。

「何か言った?」
「……どうしてやめないの?」

 真夜は目をそらした。組んだままの手を見つめている。

「どうしてって……僕の意思が弱いからですよ」
「何か苦しいことがあるなら教えてよ。サックスを吹くのがいやになったの?」
「違う。そうじゃない」

 真夜が珍しく大きな声を出した。
 葉月は息を飲み、吐きだし、ゆっくり吸いこんだ。
 体が咳をしたがったが、おさえこんだ。
 唾を飲みこむ音が耳をふさぎ、痛みが脳に響く。

「じゃあどうして薬なんかに手を出すの」
「……眠れないんだよ」

 そうつぶやいたあと、大きくため息をついて頭を抱え込んだ。

「夢を見るんだ。コズミックで大失敗する夢。調子よく吹いているのに、突然フレーズが頭の中から消えちゃうんだ。何も思い出せなくて、僕だけぼんやり立ってる。観客席から物が飛んできて、死ねって言われる。伶次さんと高木さんが冷たい目で僕を見ている。僕は混乱して発狂しそうになるんだ。頭を抱えて叫んで、自分の声で目が覚める」

 真夜は葉月を見た。ただじっと、次の言葉を待った。

「毎晩、何度もそんな夢を見るよ。眠りに落ちるとまた失敗しちゃうんだ。仕方ないから夜中に散歩に行くでしょ。そしたら友達から連絡がくるんだ。遊ぼうって。友達といるときは発狂しないし、楽しい。それに薬をやっちゃえば深い眠りに落ちる。次の日、起きられないけどね。とにかく夢は見ないんだ。深く眠って、全部忘れられる」

 瞳の焦点があっていなかった。
 一体、どれだけの夜を眠れないまま過ごしたのだろう。

 それでも真夜は吹くことをやめなかった。
 ひどい顔をしてスタジオにやってくることはあっても、コンボの練習を休んだことは一度もなかった。

「どうしてそんなにがんばろうとするの?」

 葉月の問いに、真夜は目を見開いた。

「今回は特別なんだ」

 真夜は壁を見つめて組んでいた手をほどいた。

「伶次さんがボストンに留学する話は聞いてるよね。コズミックに出るのはきっとこれが最後になる。お兄さんの祥太郎さんが亡くなったのも、三度目のコズミックを迎えたあとだったんだって。だから失敗なんて、できない。絶対に」

 所在無げに指を動かしながら、そう言った。
 女性のように長くて細い指をしている。
 金色のアルトサックスを自在に操る十本の指――夏合宿の夜、真夜の激しい音色に足がすくんだことを思い出す。

 人を惹きつけてやまない力強さと、両極端な弱さに支えられた音色が体の芯を突き抜けていった。
 伶次に誘われ、真夜のすぐとなりに立てるようになっても、真夜の本音は見えてこなかった。何を追い求め、何を恐れているのか。

 何度も助けられているのに、真夜が失敗したとき、自分には何ができるのだろうか――

「ねえ、夢の中でさ……」
「僕の夢?」
「そう、真夜が失敗したとき……私は何をしてた?」

 真夜が上体を起こした。開いていた口を閉じ、しっかり目をあわせてから言った。

「篠山さんは……泣いてたよ」
「泣いて……?」
「僕は篠山さんに歌ってもらおうと思って横を向くんだ。そしたら篠山さんは首をふるんだ。歌えない、声が出ないからって。それで泣いちゃうんだ。あわてて僕は……」

 ――声が出ない。私には、何もできない。

 青い光の中、アルトサックスを持ったまま行き先を見失った真夜が立っている。
 葉月はマイクに向かって必死に叫ぼうとする。真夜を助けなければと思う。
 今だけでいいから声よ出て、と懇願する。両足が震えて、マイクが手からすべり落ちる。
 ステージに鈍い音が響く。両手で喉を引き裂きたい衝動にかられる。
 声なんて出ない、もう出ない。

 これっぽっちも役に立たない。