紫音の夜 7~9
鍵盤のすみに小さなテンポ―マシーンが残されている。
すべてが静かだった。通気口を出入りする風の音だけが鳴っていた。
真夜の楽譜をよけて長椅子に腰を下ろす。
息をつくと、その延長上に咳が出た。
口に手を当てながら水の入ったペットボトルを探したが、一口分も残っていなかった。
テナーサックスを吹いている間に飲みほしてしまったのを忘れていた。
長椅子に戻り、咳をしながら体を折り曲げる。
すでに咳止めの薬は効かなくなり、自分の体なのに止め方がわからなかった。
しかしこの咳が体を治そうとしているのではと、なんとなく感じていた。
喉に居座る具合の悪いものを外に追い出そうとしている――疲弊してしまった心の中からも、全部。
ドアノブがおりる音に反応して顔を上げると、真夜が体とアルトサックスを半分だけ見せていた。しばらく待ったが、それ以上入ってこようとしない。
「真夜」
声は音にならず、空気が喉をけずった。咳が誘発される。
葉月が咳きこみ始めると真夜はスタジオの中に入ってきた。
楽譜を床に置いて、アルトサックスを持ったままとなりに腰かけた。
「大丈夫?」
「……じゃない」
顔をむけると、真夜は葉月をのぞきこむような目をしていた。
「咳が止まらないときは、大きくゆっくり息を吸うんだよ。ほら、こうやって」
真夜は胸をそらし、息を吸いこんだ。
葉月はこみ上げる咳を飲みこんで、酸素を取りこもうとした。
腹式呼吸の練習をするときのように横隔膜を使うイメージで限界いっぱいまで吸い、息をとめる。
一気に吐き出さず、腹筋で支えながらゆっくりと吐き出す。
真夜は葉月のリズムにあわせて同じように呼吸し、大げさに体を前後させた。
四、五回くりかえすと全身の疼きがおさまり、呼吸も落ち着いた。
飲みこんだ唾が喉に痛みを与えて胃に流れ落ちる。
「痛いの?」
真夜はあごを下げて、右手で喉元を押さえた。
それを見て、自分の右手が喉を押さえていることに気づいた。
そうすることで体の内側と外側の感覚が一緒になり、痛みが軽減する気がしていた。
押さえたまま、痰を切るようにして喉を鳴らした。
真夜は立ち上がってアルトサックスをパイプ椅子に置き、黒いフェイクレザーのトートバッグからミネラルウォーターのボトルを取り出した。
「飲みかけだけど、いる?」
「ありがとう……」
ボトルを斜めにしてから、どうやって飲んでいたのか考えた。
うまく飲み下せない。
口の端から生ぬるい液体がこぼれていく。
何の苦痛もなく、水が首筋をつたう。
ボトルの先から口を離して首をこすった。
となりに座った真夜の、開いたままの口から白いできものが見えた。
「サックス吹くと、痛そうだね」
葉月が口元を指さすと、真夜はくちびるを噛んだ。
組んだ手が軽く震えている。
華奢で血管が薄く見えている手首を眺めながら、葉月は言った。
「……薬、何てやつ使ってるの?」
「ハイ・トゥリー」
「それ聞いたら、高木さん、怒るよ」
「そうだね。高木さん、怒ってたなあ」
真夜は苦笑いをして横に寝かせたアルトサックスに視線を移した。
手を握りしめ、口を右下に引きのばす。
何度も、何度も――見ていると咳が出た。
――どうして。咳と一緒にしぼり出すような声が漏れた。真夜がふりむく。
「何か言った?」
「……どうしてやめないの?」
真夜は目をそらした。組んだままの手を見つめている。
「どうしてって……僕の意思が弱いからですよ」
「何か苦しいことがあるなら教えてよ。サックスを吹くのがいやになったの?」
「違う。そうじゃない」
真夜が珍しく大きな声を出した。
葉月は息を飲み、吐きだし、ゆっくり吸いこんだ。
体が咳をしたがったが、おさえこんだ。
唾を飲みこむ音が耳をふさぎ、痛みが脳に響く。
「じゃあどうして薬なんかに手を出すの」
「……眠れないんだよ」
そうつぶやいたあと、大きくため息をついて頭を抱え込んだ。
「夢を見るんだ。コズミックで大失敗する夢。調子よく吹いているのに、突然フレーズが頭の中から消えちゃうんだ。何も思い出せなくて、僕だけぼんやり立ってる。観客席から物が飛んできて、死ねって言われる。伶次さんと高木さんが冷たい目で僕を見ている。僕は混乱して発狂しそうになるんだ。頭を抱えて叫んで、自分の声で目が覚める」
真夜は葉月を見た。ただじっと、次の言葉を待った。
「毎晩、何度もそんな夢を見るよ。眠りに落ちるとまた失敗しちゃうんだ。仕方ないから夜中に散歩に行くでしょ。そしたら友達から連絡がくるんだ。遊ぼうって。友達といるときは発狂しないし、楽しい。それに薬をやっちゃえば深い眠りに落ちる。次の日、起きられないけどね。とにかく夢は見ないんだ。深く眠って、全部忘れられる」
瞳の焦点があっていなかった。
一体、どれだけの夜を眠れないまま過ごしたのだろう。
それでも真夜は吹くことをやめなかった。
ひどい顔をしてスタジオにやってくることはあっても、コンボの練習を休んだことは一度もなかった。
「どうしてそんなにがんばろうとするの?」
葉月の問いに、真夜は目を見開いた。
「今回は特別なんだ」
真夜は壁を見つめて組んでいた手をほどいた。
「伶次さんがボストンに留学する話は聞いてるよね。コズミックに出るのはきっとこれが最後になる。お兄さんの祥太郎さんが亡くなったのも、三度目のコズミックを迎えたあとだったんだって。だから失敗なんて、できない。絶対に」
所在無げに指を動かしながら、そう言った。
女性のように長くて細い指をしている。
金色のアルトサックスを自在に操る十本の指――夏合宿の夜、真夜の激しい音色に足がすくんだことを思い出す。
人を惹きつけてやまない力強さと、両極端な弱さに支えられた音色が体の芯を突き抜けていった。
伶次に誘われ、真夜のすぐとなりに立てるようになっても、真夜の本音は見えてこなかった。何を追い求め、何を恐れているのか。
何度も助けられているのに、真夜が失敗したとき、自分には何ができるのだろうか――
「ねえ、夢の中でさ……」
「僕の夢?」
「そう、真夜が失敗したとき……私は何をしてた?」
真夜が上体を起こした。開いていた口を閉じ、しっかり目をあわせてから言った。
「篠山さんは……泣いてたよ」
「泣いて……?」
「僕は篠山さんに歌ってもらおうと思って横を向くんだ。そしたら篠山さんは首をふるんだ。歌えない、声が出ないからって。それで泣いちゃうんだ。あわてて僕は……」
――声が出ない。私には、何もできない。
青い光の中、アルトサックスを持ったまま行き先を見失った真夜が立っている。
葉月はマイクに向かって必死に叫ぼうとする。真夜を助けなければと思う。
今だけでいいから声よ出て、と懇願する。両足が震えて、マイクが手からすべり落ちる。
ステージに鈍い音が響く。両手で喉を引き裂きたい衝動にかられる。
声なんて出ない、もう出ない。
これっぽっちも役に立たない。