紫音の夜 7~9
口に紙コップをくわえている。
葉月と目が合うと、片手に譜面を集めて、紙コップを口からはずした。
「この時間、授業じゃなかったっけ?」
「四限、休講になったんです」
まともな声は出なかった。かすれて空気ばかり吐き出される。
伶次は紙コップをそばにあったゴミ箱に捨て、葉月を見下ろした。
「喉、どうした。ライブのときから治ってないのか」
彼に会ったらまず喉の不調を言おうと気負っていた葉月は、言葉を失った。
やはり気づいていたのだ。楽譜を脇に抱え、かくすように喉をおさえた。
心臓と連動して、頸動脈が鼓動の速さをましていく。
伶次は葉月が持っていたハードケースと楽譜ファイルを取り上げて廊下に置いた。
「後半、ちゃんと歌えてなかっただろ。医者には行ったのか」
「いえ……まだです」
「じゃあ喉を見てやるから、口開けて」
伶次は人差し指を葉月の口の前でふって、開けるように合図した。
葉月は一瞬尻込みしたが、伶次が真顔で「ほら、早く」と催促するので少しだけ開けてみた。
「もっとちゃんと開けないと見えないって」
顔を上げると、伶次はかがみこんで葉月のあごを引き上げた。
口の中をのぞきながら、うーん、とうなっている。
喉がどんな状態であれ、この姿勢から早く解放されたかった。
燃え上がりそうなほど頬が熱くなっている。
伶次は葉月のあごを下げて、口を閉じさせた。
「やっぱり炎症を起こしてるな。そのうち引くだろうけど、あんまり声出すなよ。楽器は吹けるのか?」
「まだ吹いてないんでわからないんですけど、全体練習は出ます。あの、明日の……」
「その声じゃしばらくは無理だろ。真夜中心でやるから、喉を治すことに専念しな」
「ごめん……なさい」
伶次の言葉が胸に突き刺さり、葉月はうつむいた。
コズミックの本番まであと三週間を切っている。
学祭の間、いくつものバンドをかけもちしている伶次も、コズミックを最優先させて予定を組んでいた。
持ち曲の半分以上は歌ありの構成で作っているのだから、それ以外となると限られてくる。
特にフロントがアルトサックスだけの曲はアップテンポで難しいものが多かった。
喉の奥が疼く――真夜も、決して調子がいいわけではない。
「謝るな。三週間あればなんとかなる」
伶次は葉月の頭の上に手を乗せた。
ひどく荒れて皮がむけても弾くことをやめない、あの白く細い手だった。
葉月は葉を食いしばった。うつむいていると涙がこぼれ落ちそうになった。
第二スタジオには真夜がいた。背をむけてパイプ椅子に座り、巨大なヘッドフォンを耳に当てていた。
奥の長椅子いっぱいに譜面を広げている。
防音扉が閉まる音にふりむいて、ヘッドフォンをはずした。
ずいぶん顔色がいい。久しぶりに見る赤みのさした顔だった。
「元気そうじゃない」
「おかげさまで。篠山さんは声が変だね。僕の真似して薬でもキメたの?」
「ばかなこと言わないでよ」
葉月が微笑むと、真夜も笑った。
ふと今朝の夢を思い出した。真夜が躍っている夢。
あんなものを見るなんて、どうかしていると思った。
「よかったね。牢屋から出られて」
「警察に連れてかれたけど、牢屋には入ってないよ!」
いきなり真夜が声を上げた。
冗談のつもりで言ったのに、彼は本気で受け止めているようだ。
首をかしげると、真夜はしまったという顔つきで口を塞いだ。
「篠山さんこそ、牢屋なんて縁起でもない」
「今朝、見たの。真夜が牢屋に入ってる夢」
「ひどいなあ」
「警察につかまるなんて、何してたの?」
「こないだ友達と夜中にドライブしてたら、パトカーが追いかけてきたんだ。僕が挙動不審なせいで警察まで連れてかれて、人生終わったと思ったよ。運よく薬を持ってなかったから、すぐに釈放された。指紋は取られちゃったけどね」
葉月はため息をついた。何をしていたらそんなことになるのか、想像もつかない、よほど見た目の危ない友人が多いのだろうか。
「これで僕もアート・ペッパーに一歩近づけたよね」
「どういうこと?」
「薬物がらみで収監されたってことだよ」
葉月はハードケースを床に置くと、再び深く息を吐き出した。
目眩を感じながらケースの留め具をはずす。小気味いい音が鳴ってふたが跳ね上がる。
真夜はヘッドフォンを置いてパイプ椅子のむきを変えた。
「サックス、吹けるの?」
「さあ、わかんない」
リードを選び、口に咥えて湿らせる。
楽器を取ってネックを押しこみ、ストラップにかける。
首になじんだテナーサックスの重さだ。
ストラップを引き上げて口の高さに合わせる。
慣れているはずの行為ひとつひとつがひどく新鮮に感じられた。
真夜は黙って葉月を見ている。
咳払いをしてから息を吹きこむと、楽器が鳴った。喉に違和感はない。
声を出す時のような、つまった感じが全くなかった。
息が気管を通り抜け、素直に楽器本体を震わせる。
しばらくBフラットを鳴らしてから指を動かした。
低音から順に半音階ずつ上がっていく。
テナーに存在するほぼすべての音を丁寧に出していく。
何の問題もない、いつものテナーサックスの音だった。
体が元の感覚を取り戻していく。
「普通に吹ける……」
声が裏返った。一瞬、体の中を風が吹き抜けていった気がした。
今まで吹くたびに、もっとジャズらしく力強い音を出したいと躍起になっていたが、これで十分だった。
リードやテナーサックス本体の振動に体が熱を帯びていく。
「へえ、楽器は吹けるんだ。不思議だなあ」
真夜はアルトサックスを取って、同じように半音階を鳴らした。
いいピッチをしていた。音色につやが戻っている。
伶次が学祭バンドに忙しくしている分、真夜が背負っているものも一時的に軽くなっているのかもしれないと思った。
葉月も半音階をくりかえして高音域で止まった。
人差し指の腹でサイドキィを押して高音を鳴らすと、真夜はさらに甲高い音を鳴らした。
テナーサックスでは出せない音だった。
手を上げて「降参」のポーズをすると、真夜は目をむきだしにしてフラジオを鳴らした。
口元が緩んでマウスピースを咥えていられなくなり、二人同時に笑い出した。
「よかった。ビッグバンドの練習には参加できそう」
葉月はテナーサックスのボディをなでた。
声が出なくても、楽器を仲介すると思い通りに音が出た。
心地よい深みのある音色だった。
吹くことがこんなに気持ちよく感じられたのは初めてだった。
唐突に防音扉が開いて伶次が入ってきた。
葉月の首からぶら下がるテナーサックスに視線を注いでいる。
「テナーを吹いてたのって、葉月か?」
「はい。楽器は吹けるみたいです」
「そうか、よかったな。まあ、声と楽器じゃ気管の使うところが違うしな」
伶次はそう言いながら真夜に歩みよった。
「明日は『ティン・ティン・デオ』をやろう。少し構成を変えようと思うんだ。違う音源を見つけたんだけど、これがかっこよくてさ。譜面、出せるか?」