紫音の夜 7~9
8.インプリズン
真夜が躍っている。
牢屋の中でアメリカ兵のような友人と手を取り合っている。
葉月は外から太い鉄柵を揺すって名前を呼ぶ。
「何をしてるの。もうすぐ練習が始まるのに。
『ティン・ティン・デオ』をやるからって鞍石さんが探してるよ」
真夜は楽しそうに笑っている。
甘ったるい香りのする、吐き気をもよおす白い靄が彼らを包んでかくしてしまう。
「どうして出てこようとしようとしないの。私の声が聞こえない?」
声――声など出ていない。真夜に届かない。
喉に激痛が走る。鉄柵を握る手の力がゆるむ。
冷えたコンクリートの床に両膝をつく。
気持ち悪いほど汗が吹き出してくる。
喉が燃え上がる。唾が飲みこめない。声が出ない。
真夜の姿が消えていく――
窓からさしこむ光がまぶたをくすぐり、葉月は目を覚ました。
視界に淡いベージュ色の天井が飛びこんでくる。
息苦しいと思ったら、自分の右手が喉をつかんでいた。
生ぬるい感触が伝わってくる。
手だけでなく、体中にべっとりと汗をかいていた。
ベッドに横たわったまま、体を横にむけて息を吐いた。呼吸はできていた。
カーテンのすきまから漏れ出す光の中に塵が舞っている。
唾を飲んで息を吸うと、咳が出た。
声が全く出なかったのはライブの直後だけで、帰り支度をする頃にはかすれながらも会話はできる状態になっていた。
声を出さないようにしていたが、黙りこんでいたのは真夜も同じだった。
真夜と伶次が先に家に着き、葉月は最後にワンボックスカーを下りた。
おつかれさまです、と言うと高木は眉をよせたが、追及はしなかった。
少し微笑んで、おつかれ、と言ってくれたのが何よりの救いだった。
声を出したくなかったし、もう喉のことを考えたくなかった。
激しい運動をしたあとのような疲労感に襲われ、早く眠ってしまいたかった。
もう三日間、大学に行っていない。
喉を押さえて声を出してみる。裏返った弱々しい声が漏れ出る。
痛みはないが、声帯の振動が伝わってこない。
これが本当に自分の声なのかと疑ってしまう。
午後からはコンボの練習も、ビッグバンドの全体練習もある。
スタジオから逃げてばかりできない。
この声を聞いて伶次がどんな反応を見せるか――それが怖かった。
シャワーを浴びに一階に下りようかと思ったが、階下から物音がした。
平日の午前中に自宅にいるのは、大学を休んでいる葉月と兄しかいない。
冷蔵庫の開閉音が聞こえる。ダイニングをうろついているらしい。
顔を合わせたくなくて、そのまま息をひそめるようにして横になっていた。
二限目から授業に出ると、風子は驚いた顔を見せた。
「どうしたの、その声。風邪でもひいた?」
彼女だけでなく、知人たちはみな同じようなことを何度も聞いてきた。
その度に答えるのが面倒くさくて、わからない、風邪じゃないんだけど、と返した。
しばらく会話を続けると、その話題はすぐに消え去った。
週明けに学祭を迎えることもあって、誰もが浮き足立っている。
つぶれた声は当たり前のものとして受け入れられ、いつまでも違和感をおぼえているのは自分だけのようだった。
大学構内の木々はすっかり色づき、枯れ落ちた葉がタイル張りの道を覆っている。
薄青い空にとどまることなく雲が流れていく。
屋外の冷たい澄んだ空気を吸っている間はよかったが、教室に入ると咳がこみあげてどうしようもなかった。
小さな教室で教授の声を邪魔してしまうほど咳が続くときは、うしろの扉から廊下に出た。
酸素が足りず、ふらついてばかりだった。
「ねえ、葉月ったら。待ってよ」
座れるところを探して二号棟を彷徨っていると、うしろから声が聞こえた。
追いかけてきたのは風子だった。
このところ彼女とは折り合いが悪い。
会うたびに真夜のことを聞いてくるので避けがちになっていた。
「こないだはごめんってば。もう詮索しないから、逃げないでよ。はいこれ、飲んで。アレルギーとかないよね」
風子が握らせた袋の中には、栄養ドリンクと咳止めシロップが入っていた。
「なにこれ」
「何って、朝からひどく咳きこんでるから、昼休みに買ってきたの。どうせあんたのことだから、薬とかちゃんと飲んでないんでしょ」
張りつめていた神経が膨張して、目元が熱くなってきた。
よく考えれば昼飯も食べていない。
頭を下げて顔をかくしたかった。
きっとひどい表情をしていると思った。
「あーもう。上の階なら空いてるだろうから、行こうよ」
風子に手をひかれてエレベーターに乗るあいだも、葉月は下をむいたままだった。
十階の窓辺に用意されたカウンターテーブルとイスはどれも空いていた。
最上階にあたるこのフロアは教授の研究室が並んでいて、授業用の部屋はない。
葉月はゆっくりと腰かけ、風子にさし出されたサンドイッチをもそもそと食べた。
「土日もずっとライブなんだって? このところ練習しすぎなんじゃないかって、サックスパートの子たちも心配してたよ」
初めて聞く話だった。
初心者の一回生から一度は引退した四回生までいろんな立場の人が混ざっているサックスパートの人たちとは、長い時間一緒に練習したこともないし、それほど深く話し合ったこともない。
曲のたびにメンバーが入れ替わるので、つかず離れずの関係しか築けていない。
心配したりされたりという気配も感じたことがなかった。
「夏合宿のときだって、みんながお酒を飲んだり外でいちゃついたりし始めても、葉月って最後まで練習してたじゃない。鞍石さんのコンボに入ってからものすごく上手くなったって、先輩たちもびっくりしてたよ」
そう言ったあと、私はさみしかったけどね、と風子はいつもと変わらない笑顔で言った。
「ごめん」
取り残される悲しさは痛いほど知っているのに、入学した時からずっと仲良くしてくれていた風子に同じ思いをさせているとは、気づかなかった。
「葉月がそんなにストイックだったなんて知らなかった。喉までつぶしちゃってさ。明日から学祭の準備が始まるし、しばらく歌のことは忘れて楽しもうよ、ねっ」
さし出された咳止めシロップのカップを受け取って、葉月はうなずいた。
学祭に出演する数々のバンドは現役優先な上、学祭期間中はスタジオの使用を禁止されている。
他大生の真夜とOBの高木は明日の練習を最後に、一週間は大学に来ないことになっている。
しばらく喉を休めれば治るかもしれない、とこの時はまだ楽観的だった。
三限のあと、音楽練習棟にむかった。
楽器を吹けるかわからなかったが、学祭限定のビッグバンドでは不慣れな16ビートの曲が多く、全体練習の前にもう一度目を通しておきたかった。
第五スタジオの前に伶次のウッドベースが置き去りにされている。
本人の姿はない。
いつもより重く感じるテナーサックスのハードケースを引きずり出し、分厚い楽譜のファイルを持って廊下に出た。
第二スタジオに向かう途中、伶次に出くわした。