紫音の夜 7~9
吉川が胸の前で腕を組んで目を細めている。
「祥太郎とここでやってたときは、俺もまだ二十歳だったんだ。おまえなんか高校生だったろ? そういや真夜くんはもう二十歳になるんだっけ。早いもんだなあ」
ひとり言のようにそう言って、真夜を見下ろした。
当の本人は熱心にピザを切り分けている。
吉川は厨房から呼ばれるとカウンターの中に姿を消した。
葉月は高木と目が合うと吹き出してしまった。
コンボの中では最年長でいつも落ち着いている高木が、後輩らしくからかわれている姿が意外でおかしかった。
「高木さん、孤高の人だったんですか」
「言うなよ、それ。人見知りが激しかっただけだよ」
高木はまた眉をしかめて苦笑した。
ウッドベースのセッティングを終えた伶次がテーブルにやってきた。
それを追うように吉川がグラスを持って近づいてくる。
「よお伶次、元気かあ」
何度もそう言いながら、子犬をなでるときのように伶次の黒髪をくしゃくしゃにした。
二人はもちろん、それを見る高木も笑っていた。
本番中、真夜はかなり汗をかいていた。
一曲目から広い額にうっすらと汗をにじませ、曲が終わるたびに腕で汗をぬぐった。
室内はそれほど暑くはなかった。
薄暗い店内では、ステージ照明がプレイヤーにわずかな光を当てている。
客の入りは六割程度で、ドアが開くたびに吹きこむ外気が肌寒く感じたぐらいだ。
風に乗って雨のにおいの混じった夜気が運ばれてくると、喉の渇きがひどくなった。
客席に立ち上るわずかな煙草の煙さえも、わずらわしく思える。
ビブラートが思うようにかからない。
腹に力をこめようとしているのに喉に鋭い痛みが走る。
肺から送り出す呼気が気管にまとわりつく。
あごを引ひきつけて真正面を見つめ、気管を広げようとした。
横隔膜を使って腹式呼吸をする。
一本の太い管が足の裏から喉元まで通っているイメージを持つ。
歌のコーラスが終わりに近づくと、真夜は落ち着きなくストラップを上下させた。
マウスピースに口をつけては離しての動作をくりかえす。
汗が細い線を描き、痩せた頬をつたった。
葉月の喉は塞がったようになっていた。
高木が刻むライドシンバルに乗り、勢いだけで声を押し出す。
ねばっこい痛みをかき分けてハイノートをふり絞る。
Fにむかうベンド奏法から真夜のソロが始まる。
音程が正しいFまで到達しない。
追い立てられるように指を動かし、息をつぐ。
真夜を横目で見ながら、足元に置いたペットボトルを拾いあげた。
水の表面が細かく揺れている。指先が震えている。
隣で激しくアルトサックスを鳴らす真夜の右手の震えも止まらず、サイドキィをとらえ損ねた。
また喉の奥が疼く。
葉月は水を飲んで咳ばらいをした。
何が喉を支配しているのかわからない。
コントロールが効かない。
低音を出そうとすれば筋肉はだらしなく緩み、高音を出そうとすれば縦に細く強烈な痛みが走った。
首を切り落としたくなった。断面を見て喉を塞ぐ正体を知りたかった。
真夜が紡いだ音を引き継がなくてはならない――歌をやめるわけにはいかない。
水を飲んでは痛みをごまかし続けた。
潤した直後はわずかに調子を取り戻したが、痛みが戻り始める間隔は容赦なく縮まっていった。
アンコールのときには水もなくなっていた。
それでも歌うほかない。
適当に力を抜いて出なくなった高音域をごまかし、マイクから口を離す。
痛みを越えて、どこから声がでているのかもわからなくなった。
耳に聞こえる声は自分のものではなく、スピーカーから漏れ出すただの音だった。
拍手を送る観客におじぎをし、頭を上げた瞬間、目眩をおぼえた。
マイクを取りつけるふりをしてマイクスタンドにしがみつく。
喉が焼けるように熱く、水分を欲しがっている。
唾を飲みこむのも苦痛をともなう。舌で喉の奥を探る。
風邪をこじらせたときのように、ざらついている。
葉月は観客をかきわけて奥のバーカウンターに歩みよった。
吉川が大きなグラスを磨いている。
葉月に気がつくとグラスを置いてカウンターに身を乗り出した。
「おつかれさま。体は小さいのに、いい声してるなあ。伶次が一緒にやりたがるのがわかるよ」
「あ……りがとうございます。あの、お水……もらえませんか」
吉川は目を丸くしていたが、すぐにグラスに冷水をついでくれた。
葉月は一気に飲みほした。
全身にしみ渡るような安堵感が広がる。
胃は苦しいが、この瞬間だけ少し楽になれる。
手の甲で口をぬぐって一息ついた。焼けつく感覚はおさまった。
「喉が痛いのかな、大丈夫?」
空のグラスをさし出し、大丈夫です、と言ったつもりだった。
吉川は不安げな顔をしてカウンターに手をつき、葉月をのぞきこんだ。
水滴のついた銀色の水差しを傾けて、「まだ飲む?」と聞いた。
いえ、大丈夫です。
葉月はそう口を動かしてから喉を押さえた。
気管は毛羽立った分厚いガーゼにくるまれているようだった。
痛みがない。
声帯が震える感覚もない――嫌な汗がにじみ出してくる。
「ほら、飲んで」
言われるままにグラスを手に取り、冷えた水を喉に送る。
喉に手をあてて腹筋に力をこめた。息はできる。
腹式呼吸もちゃんとできている。
なのに、どうして――
声が、出ない。