紫音の夜 7~9
伶次と高木が何とか合わせようとすると、真夜はさらに混乱の様相を見せ、音が空中分解した。
ビートを取る二拍目と四拍目さえあっていれば演奏が保てるのだが、真夜は一拍ずれたまま戻れなくなった。
伶次と高木は楽器を鳴らしながら顔を見合わせる。
タイミングをあわせて無理やり一拍増やし、アルトサックスとかみ合うようにした。
だが、すぐに真夜は遅れ始めた。
伶次はくちびるを噛んで、曲に無関係な音を激しく鳴らした。
「真夜、止まれ!」
真夜は楽器をかまえたまま呆然としていた。なぜ止められたのか、わかっていないような顔だ。
黙ったまま、伶次と譜面を交互に見た。
「表拍と裏拍がひっくり返ってる」
伶次にそう言われて真夜は譜面をのぞきこみ、それから葉月を見た。
葉月はアルトサックスの譜面を見て中央あたりを指さした。
「ソロに入った時から少し遅れてたんだけど、この辺から完全に一拍ずれてたかな。鞍石さんと高木さんがあわせにかかったんだけど、またすぐにずれちゃって……」
「そうか……ごめんなさい」
真夜は深く頭を下げた。顔が見えない。
アルトサックスを抱きかかえるようにしていつまでも頭を上げなかった。
こういうとき必ず問題の解決法をあげる伶次も、ベースによりかかって黙っていた。
高木はスティックをバスドラムの上におき、ブラシを取ってスネアドラムとフロアタムを軽く叩いた。真夜が顔を上げる。
「もう一回最初からだ。テンポを下げよう。240でいくから落ち着いて吹け、いいな」
これまでこの曲は320bpmでやってきた。80も落とすとかなり曲の雰囲気が変わる。
同じ歌い方では息がもたない気がした。
先ほどの勢いのないハイノートを思うと、不安に包まれた。
「葉月ちゃんは休憩。テンポを戻してから入ればいいから」
高木はテンポマシーンを鳴らしながら言った。
彼のこういう気遣いにはいつもほっとさせられる。
真夜と伶次の表情もわずかながら緩んでいた。
葉月はうなずいて、喉に水を流しこんだ。
高木はハイハットのペダルを踏み、ブラシでカウントを取り始めた。
「伶次、もっとハイハットを聞け。感覚で弾くな」
伶次はいつの間にかウッドベースをかまえていた。 口を横に結んで小さくうなずく。
高木のカウントで練習は再開した。
葉月は固唾を飲んで真夜の様子を見守った。
結局『イッツ・オール・ライト・ウィズ・ミー』は280bpmでやることになった。
リハーサルが終わってからも、真夜はひとり、グランドピアノの裏でアルトサックスを吹き続けていた。
間違えてはやり直し、引っかかってはまた最初から吹く。
ため息もなにも聞こえなかった。
ピッチの狂ったアルトサックスの音色だけが、ステージの隅で絶え間なく響く。
伶次は寝かせたウッドベースのそばに立って、白い薬を手に塗っていた。
たっぷりと指先にのせて、指の付け根まで丁寧に塗りこんでく。
顔や首のまわりの赤身はずいぶん引いていたが、紺のタートルネックの下がどうなっているか、わからなかった。
ウッドベースを起こし、弦になじませるように、手をゆっくりと上下にスライドさせる。
葉月は手で喉を押さえた。
大声を出したあとのような違和感が取れない。
真夜の失敗を聞くたびに喉の奥がうずいた。声を出した分だけ、悪くなっている気がした。
「食いな。腹減ってるだろ」
高木の声にふりむくと、うしろのテーブルの上にはピザやスナックが並べられていた。
彼は口を大きく開けてピザを一切れ放りこむと、咀嚼しながらグランドピアノの方へむかった。
アルトサックスの音が止まる。
ぼそぼそと話し声が聞こえ、高木は真夜の腕をつかんで引っぱってきた。
楽器を持ったままの真夜の肩を押してソファに座らせる。
「もうやめとけ。本番前に口を壊すぞ。飯でも食え」
真夜は立っている高木を見上げて、はあ、と力なくつぶやいた。
緩慢な動きでストラップからアルトサックスをはずすと、それを高木がひょいと取り上げた。
葉月は真夜と向かいあって座り、膝の上に手をおいて料理を見つめた。
真夜の隣に座った高木はフライドチキンやサンドイッチを次々に口に運ぶ。
「食わないのか。だからおまえらちっこいんだな。こんな細い腕して」
高木は真夜の腕を取り上げた。
男にしては骨格そのものが細すぎる腕をしている。
葉月は自分の腕とこっそり見比べてみたが、そう変わらない気がした。
真夜はまた、はあ、とつぶやく。
高木はピザの乗った大皿をひきよせて、真夜に「食え」と合図した。
「調子悪いのか?」
「そうですね」
真夜は無表情のままピザをつまみ上げた。
「思った通りに吹けないか」
「そのとおりです」
垂れ下がるチーズと格闘しながら言った。
葉月はそばにあったフライドポテトを取った。
「別に譜面通りにやる必要はないんだ。演奏の流れの中で思いついたことを好きなように吹けばいい。ほとんどの奴はそうしてる。おまえだって、アドリブできるんだろう?」
「僕のはむちゃくちゃですから」
「怖いか?」
「そう……ですね」
ピザを持ち上げる動作が止まる。 真夜は存在しないどこかを見つめていた。
少し開いていた口を閉じて、肩を落とした。
「自分を見失いそうで」
「そうか。おまえがそう言うなら、いいけどな」
高木は体をうしろにねじって、背の高い男性の従業員に水を三つお願いしますと頼んだ。
真夜はその人に軽く頭を下げて、動かなくなった。
高木の大きな手のひらが真夜の頭に乗った。
「失敗を怖がるな。おまえには才能がある。他人がどんなにうらやんだって手に入らない感性だ。偽らず、心のままに吹けばきっといいプレイができる。自分のことなんてわからなくて当然なんだから、たまには見失ったっていいじゃないか」
高木は微笑んで真夜の背中を叩いた。
真夜は食べかけのピザを小皿に乗せた。遠い目をしたまま、はい、とつぶやいた。
「今のは祥太郎の受け売りだよねえ」
頭の上から声がふってきた。
先ほどの長身の従業員が右手に一つと左手に二つ、水の入ったグラスを持ってきた。
器用に料理のあいだに置きながら、高木をのぞきこむ。
「簡単に種明かしをしないでくださいよ、吉川さん」
聞いたことのある名前だと記憶を探っていたら、黒い髪に黒いサロンの彼がにっこり微笑んだ。
伶次からもらったCDのやわらかい丸みを帯びたテナーサックスの音と、優しい笑顔が一致する。
葉月は中途半端な笑顔で、初めまして、と言った。
「やあ、新しいヴォーカルさんだよね。伶次から話は聞いてるよ」
戸惑う葉月の肩を、高木が持った。
「そうそう、この子、テナーサックスもやってるんですよ」
「へえ、奇遇だなあ。今後もよろしくね」
細い目をいっそう寄せて笑った。
吉川が右手をさし出したので、つられて握手をした。
「いやあしかし、孤高の高木にこんな可愛い後輩ができるなんてなあ」
「勘弁してくださいよ」
高木は苦笑して水を口に含んだ。