春の嵐の前に
「そうかな? こんなのは全然駄目だと思うけど」
「いや。大したもんだよ。うん」
考太の隠れた才能に、俺はすっかり感心してしまった。俺も絵は大得意だったが、考太には正直「負けた」と思った。
「絵は昔から好きなんだ」
少し頬を赤らめて、考太は言った。
「潤の絵もなかなかいいよ」
「えっ?」
「なに?」
「いや。初めて名前を呼んでくれたなって」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
それに初めてのポジティブ発言だ。
「絵はいいよ」
考太はため息をついた。ますますのポジティブ発言に、俺はたじろいだ。考太はまだ体調が悪いのか?
「すごくいい。自由で、自分の感じたことを、ぶつけることができて」
その日の授業が終わり、教室を出ようとすると、俺は後ろから声をかけられた。
「潤」
考太が後ろに立っていた。
「あ、あの」
考太は言いにくそうに言った。
「うちに来ない?」
「えっ」
「もちろん良かったらだけどさ」
「この部屋。本がいっばいあるなあ」
俺は考太の部屋に来ていた。
「みんな、坂口さんの本なんだ」
「おっ、画集もある。見てもいいかな?」
「いいよ」
俺は一冊の画集を手に取った。
「俺、ゴッホって好きなんだ」
「ぼくもだよ。情熱的で熱い画家だよ」
「考太。つまらない話だけれど、聞いてくれるか」
ふと話してみる気になったのは、考太の境遇に自分を重ねたからだろうか。
「俺の父さんと母さんは離婚して、俺はいま父さんと暮らしてるんだ。父さんは転勤が多いから、俺も転校は、これで五回目さ」
「どうして離婚したの?」
「母さんに好きな人ができたらしい。父さんは無理やり、そいつと母さんを別れさせたらしいけど、結局父さんと母さんは、うまくいかなかった」
「潤の母さんは、潤のことがが大事ではなかったのかな?」
俺はうなずいた。
「俺はそう思ってる。どんな事情があったとしても、俺は母さんを許せない。大人になっても、たぶん許せないんだと思う」
俺は考太に向き直った。
「なあ、考太。いったい、どちらが不幸なんだろうな? 最初から親の愛を知らないのと、親の愛を途中から信じられなくなるのと」
その日から、俺は考太のうちに、ちょくちょく立ち寄るようになった。
ゴッホやセザンヌ、マチスの画集を眺めては、
「潤。見てよ、このヒマワリ。燃えてるようだよ」
「こっちの絵も見ろよ、考太。この色、とても出せないよ」
「そうそう。そういうことなんだよね」
二人して言い合って、ため息をついた。
俺も考太も、絵画をこよなく愛していたのだ。
あのとき考太が描いた絵は、全国児童画コンクールで、最優秀賞に選ばれた。
考太の才能が、あらためて証明されたってわけだ。
俺の絵もそのコンクールに入選した。庄司先生のはからいで、考太と俺の絵は、コンクールにエントリーされたのだ
「やったなー、おい!」
考太の肩をたたいて、俺は言った。
「嬉しいよ。初めて嬉しいって思ったよ!」
考太の顔も輝いたが、すぐに真顔に戻った。
「ぼく、絵描きになりたいな」
考太は、ぽつりと言った。
「考太ならきっとなれるよ」
俺は言った。
「俺、考太の絵。すごい好きだよ」
「だけど…このままじゃ駄目なんだ」
考太は首をふった。
「ぼくは、坂口さんの会社を継ぐことになってるんだ」
ゴッホの「星月夜」が、日本にやってくる!
そのことを、俺はテレビのニュースで知った。
「星月夜」は、ゴッホの晩年の傑作で、俺も考太も強く惹かれる絵画の一つだった。
そのことを知らせると、考太も目を輝かせた。
「絶対見たい」
考太は強い口調で言った。
「俺も見たい」
俺の声も上ずっていた。
「考太。一緒に見に行こう!」
その日。俺と考太は駅で待ち合わせて、美術館へ向かった。
二人とも、なんだか無口だった。俺は胸の高まりを抑えることができなかった。
「なんだかドキドキする」と、考太は言った。
たくさんの人だかりの中、その絵はあった。
うねるようなタッチ。幻想的でありながら、激しく熱い。
ゴッホの「星月夜」は、俺の心をつかんで離さない。
それは考太も同じだったのだろう。
「ああ…やっぱりすごいよ…本物は…」
感嘆の声をあげた。
たくさんの人にもまれながらも、俺と考太は長い時間、そこに立っていた。
あくる日の考太は様子がおかしかった。どこか上の空で、俺が話しかけても「ああ」とか「うん」としか答えない。
何かを考えこんでいるようだった。
そんな日が何日か続いた昼休み。めずらしく考太の方から話しかけてきた。
「潤。ちょっといいかな? 話があるんだ」
「ここでは話しにくいことなんだな?」
俺が言うと、潤はうなずいた。
「じゃあ、屋上へ行こう」
俺と考太は校舎の屋上に昇った。
二月の風は、まだ冷たく、俺と考太に吹きつけてきた。
「潤。ぼく、決めたんだ」
考太は言った。
「何を?」
「坂口さんの家を出ようと思うんだ。だって、こんなの意味ないし、このままじゃ絵の道には進めないから」
「そうか…」
「坂口さんは今日めずらしくうちにいる。話すなら今日しかないんだ」
考太は自分に言い聞かせるように言った。
「潤。そばについていてくれるかい?」
考太は俺を振り返った。
「一人じゃ、きっと言い出す勇気が出ないだろうから」
俺たちは、考太のうちへと向かった。
最初に考太のうちへ来たとき案内された豪華な応接室。
そこのソファーに、坂口さんは座っていた。
「あ、あの、坂口さん…」
考太は、おずおずと話を切り出した。
「話があるんです」
考太は静かに話し始めた。
画家になりたいこと。
その為にこの家を出て行きたいこと。
全て聞き終わると、坂口さんは言った。
「きみのことは私が決める。きみは私の会社を継ぐんだ」
「ぼくは…ぼくは自分のことは自分で決めたいんだ…」
考太の声は震えていた。
「だから、ここにいちゃ駄目なんだ!」
坂口さんは、呆気にとられ、そして口を開いた。
「どうしても私から、私の元から去って行くというのか…」
坂口さんは、考太の両肩を、がっしりとつかんだ。
「駄目だ。きみは私のものだ。行かせない。行かせはしない」
「痛い…離して!」
考太は、坂口さんの手を振り払った。
「ぼくは…ぼくは自分のことは自分で決めることにしたんだ!」
考太は叫んだ。
「だから行かせてください!」
坂口さんは、二三歩、後ずさり、ソファーにがくんと腰をおろした。
「考太くん。きみにはがっかりさせられたよ」
坂口さんは口を開いた。その目は、もはや考太を見ていなかった。
「なぜだ? 妻も娘も…そして、今度はきみか…」
床の絨毯を見つめて、坂口さんは言った。
「なぜだ? なぜ、みんな私から離れていく」
坂口さんはつぶやいた。
「好きにするがいい」