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青空夏影 面影は渓流に溶け入りて

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 よく見てみれば、くりくりとした瞳をしているこんな小さな生き物に、私は何を怖がっていたのだろう、と、ちょっと馬鹿らしく思えて、私は噴出してしまった。
 藍も笑った。
 こうして誰かと笑い合うのは何年ぶりのことだろうか。
「こっちには何があるの?」
「こっちには山ヤギさんがいるんだよ」
 山の裾を登っていくと、小さな酪農小屋があった。
 トタン屋根の中には白ヤギが数頭いるのが見えた。
 陰にはもっといるのかもしれない。
 入口の方から小屋の方を見ていると、おさげをした女の子がバケツを持って、小屋から小屋へと忙しく行ったり来たりしていた。
 この小さな港町へ来て、初めて藍以外の子供を見た。
 よく見れば、藍と同じか少し下くらいの子供だ。
 女の子の持っているバケツは、おそらくヤギの乳を入れるためのものだろう。
「見に行かないの?」
 私は入口のところで、山ヤギを眺めている藍に言った。
「うん、今日はここまでだよ」
 あの女の子とは知り合いではないようだ。
 藍は学校へは通っていないという。
 理由は深く詮索していなかった。
 もし、藍が学校へ通っていたら、四年生くらいで、あの女の子は三年生くらいだろうか。
 仕方なく、私と藍は来た道を戻り始めた。
 坂道を下りている途中で、赤い自転車を押して歩いている女の子とすれ違った。
 おかっぱ頭の女の子はこちらをじっと見つめていたが、藍は視線を合わせずに、そそくさと通り過ぎてしまった。
 この子も藍とは知り合いではないらしい。
 藍は人見知りなところがあるのだろう。
 それは私も同じだから、彼女の気持ちはよく分かる。
 でも、それが自分を孤独にさせている一つの理由であることは、私もよく理解していた。
 私は、できれば藍には私と同じ孤独は味わってほしくないとも思った。
「アヤメおねぇちゃん、また遊ぼうね」
 港に着くと、藍はそう言いい、私に向かって元気に手を振った。
 彼女の住んでいる家は、港から見えるところにある。
 古びた一軒屋だが、私の家よりはよほど立派だろう。
 私も藍に手を振り返す。
 藍は遊んでいる時や、私といる時はいつも笑顔だった。
 笑顔なのだけれど……。
「あんたぁ、見ねぇ顔だな」
 藍を見送っていた私に声をかけてきたのは、港に泊まった船で網を畳んでいた一人の漁師だった。
「ええ、最近引っ越してきたの」
「よくもまあ、こんなちぃせぇ町へ来たもんだ」
 それから、漁師はこの町の港の話などをし始めた。
 昔から漁で成り立ってきた漁村で、合併して町になったものの、過疎化でどんどん人口が減ったこと。人を呼び戻すために、海水浴場を建設して、観光地にする計画があること。
 若い人で、自営業の手伝いをするような人達以外は、商業施設や大きな学校、病院などがある隣町に行くか、遠くへ引っ越してしまうそうだ。
 私は、藍以外に二人ほどしか子供を見かけていない状況をそこで初めて理解した。
「ところであんた、あの子とはどうしたんだい?」
「どうしたって……藍と一緒にいたこと?」
「ああそうさ。あの子はこの町じゃ有名さ。いつも一人で遊んでいてな。父親も母親もいない。数年前の梅雨の日に、一人でこの港にいたところを、あの家の婆さんに拾われたんだ」
「……」
 私は漁師の話を、耳を澄ませて聞いていた。
 藍からは聞けない彼女のことだったからだ。
「その婆さんも長くはないだろうからな。かわいそうな子だよ」
「あなたは藍を引き取ろうとは思わないの?」
「自治会でも話が出たんだ。あの子を引き取れるような家は、もうこの集落にはないんだよ」
 私は漁師の話を聞いて、何かが胸に突き刺さるような思いがした。
 家庭も家族もあった私と、それがない藍は、孤独の意味が違ったのだ。
 藍は望まなくても元からいなかったのだ。
 私はそれらを捨てた身だ。
 藍の寂しさは理解できる。
 でも、私は彼女の本当の孤独を知ることはできない。
「だから、あんたはあの子と一緒にいてあげな。あの子、あんたといる時ゃ、いい顔しているからなぁ」
 藍は私よりもずっと辛かったのだ。
 ずっと、一人で耐えてきたのだ。
 本当の親から名前も呼ばれない寂しさと闘いながら。
 藍は、この空の下で生き続けていたんだ。


 私は次の日、学校を早く抜け出すと、藍の家へと向かった。
 黒ずんだ粗末な家だったが、庭も広いし、藍とその老婆が暮らすには広すぎるほどだろう。
 縁側には、一人の腰の曲がった老婆が座っていた。
 藍は遊びに行っていていないのだろう。
 老婆は私の姿を見つけると、ゆっくりと会釈をした。
「お話しはいつも聞いていますよ。さあ、どうぞお上がりください」
 私は居間に上がらせてもらい、老婆から藍の話を聞いた。
「あの子には、父も、母も、安らげる場所がなかったのです」
 震える手でお茶を差し出してきた老婆は、藍のことをつぶさに語りだした。
 雨の日、老婆は港で佇んでいる一人の女の子を見かけた。
 海も空も藍色に染められた日だった。
 女の子は名前以外、何の身元もわからなかった。
 警察に連れて行こうとするも、藍は『ケイサツ』という言葉に反応し、それを酷く拒絶したそうだ。
 結局、役所に届出をするも、該当する捜索願がなく、現在に至るまで父親も母親もわかっていない。
 老婆はそんな藍を引き取ることにした。
 すでに夫には先立たれ、後は迎えを待つばかりだったというのに、藍との出会いは老婆にとっても、不思議なものだったという。
 藍は学校に行くことを酷く嫌がった。
 とにかく、人のいるところに行くのが嫌な子だった。
 まるで、何かから逃れているかのように。
 それから不登校児童となってしまったが、藍は自然とともに遊んでいる時はとても楽しそうだった。だから、無理強いさせることなく、彼女の好きに遊ばせているという。
 以前からそんな遊びが好きだったのだろうと老婆は思ったそうだ。
 この子のことを想い、老婆は自分が生きている間だけでも、藍に思う存分遊ばせてあげることにした。
 ただ、自分以外に引き取り手もいない。
 これからのことは老婆も考えあぐねていたという。
 だから、私は言った。
「もし、あなたが死んだら、藍は私が引き取るわ」
 老婆は拒否も肯定もしなかった。
 ただ、その老いた視線は、私には感謝と申し訳なさで溢れて見えた。
 老婆の家を後にした私は、砂浜の防波堤に藍の姿を見つけた。
 藍は防波堤に手をかけたまま、半ば隠れるようにして、波打ち際の方を見つめていた。
「あ、おねぇちゃん」
「こんなところで何をしているの?」
 藍にしては挙動不審な行動だったので、私は聞いた。
 藍の近くには赤い自転車が停まっていた。
「あれ、何をしているんだろね」
 藍の指差した方向に目を向けると、浜辺でしゃがんでいる二つの小さな影を見つけた。
 昨日、見かけた女の子達だった。
「何をしているのか見に行きましょう」
「でも……」
 躊躇する藍の手を引いて、私は砂浜へ降り立った。
「何をしているの?」
 私が声をかけると、二人の女の子は私の顔を見た。
 藍は私の後ろに隠れて、顔を半分だけ出している。
「貝を拾っているの」