青空夏影 面影は渓流に溶け入りて
少女はカブトムシに向かって手を振ると、私の方へと走り寄ってきた。
「もうお昼だから帰るって」
「そう」
私は遠くの海を見つめたまま、少女の言葉に適当に返答をした。
「おねぇちゃん、少し投げやりになってない?」
子供の割に難しい言葉を使う。
いや、子供とは言っても、この子の歳なら、それほど幼くはないはずだ。
少なくとも、私がこの少女と同じ歳の頃には、既に周囲と壁を作る術を知っていた。
「なってないわ」
「あ、カモメだよ、おねぇちゃん!」
私は答えたが、少女はまた別のものに気をとられて走っていった。
「……」
私は少女の天真爛漫さにあきれて、一人ため息をついた。
あんなのに付きまとわれてしまったら、きっと厄介なことになる。
服が乾いたら、さっさと帰ってしまうべきだろう。
いつもの私なら、きっとそう考えただろう。
私は、黙って少女がカモメを追い掛け回しているのを見ていた。
この港町に住んでいるなら、カモメなんてそう珍しいものではないだろうに。
でも、少女はとても嬉しそうな表情をしていた。
まるで、それ以外に遊び相手がいないかのように。
「いつも一人で遊んでいるの?」
私から少女に聞いた。
「そうだょ」
他に友達はいないの、そう聞こうとしてやめた。
こんなにも寂れた町なのだ。
彼女くらいの年頃の女の子なんて、数えるほどしかいないのだろう。
私が町を歩いた時、子供や若い人の姿は一切と言っていいほど見かけなかった。
それでも、学校と通学路はあるらしく、少なからず、子供はいるみたいなのだけれど。
「カモメやカブトムシと遊ぶと、とっても楽しいんだょ」
少女の言葉には何か悲しいものがあった。
なら、冬はどうしているのだろう、少女は。
ずっと一人で生きてきたのだろうか、この少女は。
少女は孤独な子猫のようだった。
それが都会か、小さな港町かという違いだけで、彼女は私と同じなのだろう。
ずっと、一人で生きていたのだ。私と同じように。
「おねぇちゃん、この町に引っ越してきたばっかりなんでしょ? 人があんまりいないからわかるんだょ」
少女はどこか嬉しそうだった。
その笑みからは、なぜかとても懐かしい香りがした。
最後に、人に笑みを向けられたのは、いったいいつのことだろうか。
きっと、母がまだ生きていた時だ。
母から向けられた優しい笑みだけが、私の記憶に残っていた。
母が笑うと、なぜか私も自然と笑みが零れたものだった。
私が最後に笑ったのはいつの頃だったろうか。
「私と一緒に遊ぼ。そしたら、私がこの町を案内してあげるょ」
町の人たちは遊んでくれないから、若くて新しい人が来たのが嬉しいのだろう。
「あ、自己紹介がまだだったょね。わたしは藍! おねぇちゃんは?」
他人に名前を聞かれたのは初めてではないけれど、少女とのやり取りは、私にはなんだか不思議な感覚がした。
儀礼や事務的な感情じゃなくて、純粋に私のことを知りたいとそう思う気持ち。
別にこの小さな港町を選んだ理由はなかった。
けれど、私はそこで出会った。
「わたしの名前は……アヤメよ」
それが私と藍との出会いだった。
4、スイカの会
「アヤメちゃん」
翌朝、道を歩いていた彼女の姿を見かけた俺は、迷わずに声をかけた。
振り返った彼女は、相変わらず涼しげな素振りをしていた。
「サツキの家でスイカの会をやるんだけど、アヤメちゃんも一緒にどうかな」
今朝、秘密の場所を案内してくれたお礼も兼ねて、俺は彼女を誘った。
「私は、用事があるから」
しかし、彼女には断られた。
再び山へと足を向ける彼女は、また、あの場所まで行くつもりなのだろうか。
山道へと去っていく彼女の後ろ姿を見つめながら、俺はサツキの家へと急いだ。
サツキの家では、今朝収穫したばかりのスイカが、幾つか大きな桶に入れられて、水で冷やされていた。
「ねぇマコト。今朝、仕事に遅刻してアヤメちゃんとどこに行っていたの?」
台所にスイカを切りに行った美沙ちゃんを待ちながら、サツキと縁側で涼んでいた時、そう聞かれた。
あの時、アヤメちゃんに「誰にも言わないで」と言われたのを思い出す。
言ったら嫌いになる、というのは本気かもしれない。
「いや、別に彼女について行っただけだよ。山を散歩しただけ」
「山を散歩ねぇ……」
「な、なんだよ、その顔は」
サツキは目を白線のようにして、あからさまに訝しげな表情をしている。
「別にぃ。でも、マコトとアヤメちゃんが珍しいなって思って……」
「スイカ持ってきたよー」
会話の途中で、美沙ちゃんが戻ってきた。
彼女が持ったおぼんの上には、三角形に均等に切られたスイカが乗せられている。
そのおかげで、疑いの顔を俺に向けていたさつきは、スイカに注意を向けてくれた。
今年の初物だ。
舌鼓もする間もなく、俺がさっそく手を伸ばそうとすると、後で伸びてきた手が先にスイカの一切れをさらった。
「おい、それ俺が狙っていたやつ……」
サツキは、俺の抗議など聞こえないとばかりに、豪快にスイカにかぶりついた。
サツキを横目で見てやると、俺たちのやり取りを見ていた美沙ちゃんが聞いてきた。
「何かあったの?」
「ううん、なんでもないよー。それより、やっぱりうちのスイカは最高だね!」
サツキの盛り上がり様を見て、美沙ちゃんもスイカを一つ口にした。
「ほんとだ、今年もすごく甘いね」
彼女の食べ方は、サツキと違ってなんともおしとやかだ。
肉食系と草食系という分け方が、きっと正しい。
サツキも美沙ちゃんくらい落ち着きがあってほしいものだ。
まあ、それはそれで、少し静かすぎるかもしれないが。
彼女達とは、毎年こうしてスイカの会をしている。
スイカはサツキの家の作物の一つだ。
今朝はその収穫前の手伝いに呼ばれていたのだ。
十分に冷えた甘いスイカは、みずみずしくて、まるでシャーベッドのような口どけだった。
去年のスイカの会には、転校してきたばかりのアヤメちゃんにも声を掛けたのだが、その時も断られた。
今年も彼女の姿はない。
「ところでマコト、夏休み中のこと、何か考えてくれた?」
サツキがスイカの種を庭の遠くに飛ばしながら、俺に聞いてきた。
正直、俺は何も考えていなかった。
昨日の夜は、今朝のアヤメちゃんとの約束のことで、なんだか頭がいっぱいだったからだ。
俺とあまり話をしない彼女が、どういう意図で俺を秘密の場所に誘ったのか、あれからずっと考えていた。
結局、それらしい答えはまだ見つかっていない。
そんな彼女は美沙ちゃんいわく、みんなのことを気遣ってくれているという。
正直、信じられなかったが、昨日の夜、アヤメちゃんに言われたように、ここは俺が一言、言った方がいいのかもしれない。
夏休みの過ごし方という宿題を忘れて、ごまかすように視線を巡らせていた俺は、ふと、和菓子の袋に目が留まった。
決まらないよりは言った方がいいか。
「ここなんてどう?」
俺が指差したところを二人が覗き込む。
二人は顔を上げると、目を合わせて言った。
「京都!?」
作品名:青空夏影 面影は渓流に溶け入りて 作家名:如月海緒