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青空夏影 面影は渓流に溶け入りて

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 俺達が上へと登るたびに、小さな港町はさらに小さくなっていった。
 農道を上りきったところで、次に森へと入った。
 この先にはいったい何があるのだろうか。
 見上げても、そこには山と森しかなかった。
 森の中には、蝉の鳴き声が木霊していたが、奥に行くにつれて、それは不思議と小さくなっていた。
 代わりに、水の流れる音が聞こえた。
 少しして森が開ける。
「ここは……」
 目の前には川が流れていた。
 最初に彼女と行った場所ほど大きな流れではないが、それは渓流と呼ぶに相応しいものだった。
 まだ山から染み出したばかりの湧き水が、透明な流れとなって山の谷間を流れている。
「この場所は今、私とあなたしか知らない」
 彼女は言ったが、それはどういうことだろうか。
 彼女はこの町に来てから、俺達とずっと一緒だったはずだ。
 彼女の足取りや物言いは、初めからこの場所を知っていたかのようだった。
 仮に彼女がこの町を知っていたとしても、彼女はどうして俺をこの場所に連れてきたのだろうか。
 あの時もそうだった。
 なぜ、渓流なのか。
「どうして、ここに俺を?」
 アヤメちゃんは自然の音を聞くかのようにして目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んでから、静かに吐いた。
 俺は彼女の答えを待った。
「私は都会に住む前、この小さな港町で大切な人と一緒に暮していたことがあるの」
「!」
 だから、彼女はこの町の場所も、渓流のことも知っていたのだろう。
 彼女は京都で俺に教えてくれた。
 大切な人に会いたいと。
 でも、その人は決して会えないくらいに、遠い場所にいるのだと。
「どうして今まで黙っていたの?」
「特に言う必要もなかったから。この町へ来ることになった時、正直、私は嫌だった。仕舞い込んだ思い出を、もう一度引き出さなければならなかったから」
 だから、夏結達に着いて行くことが決まった時、彼女は旅館の部屋で悲しげに外を見つめていたのだ。
 俺達の話に加わることもなく、一人きりで。
「幼い頃、私はある事故で両親を失った。それから一人ぼっちになって……気がついた時、私は一人の御婆さんとともにこの町に住んでいた。私はいつも一人で遊んでいた。私は一人ぼっちだった」
 彼女は大切な記憶を一つ一つ紡ぎ出すように語り出した。
「そんなある日、私は港で一人の女子高生と出会った。この町で見かけない人だったから、興味を持った私は彼女に付きまとった。最初は鬱陶しそうにしていたその人だったけれど、私は彼女と仲良くなって、一緒に遊ぶようになった。御婆さんが亡くなった時も、彼女だけが私の心の支えだった。その後、行き場を失った私を、彼女は引き取ってくれたの」
 つまり、彼女にとってはお姉さんのような存在だったのだろう。
 でも、話ではアヤメちゃんは、その大切な人と別れることになってしまった。
 彼女を最初に引き取った御婆さんのことも大切だったに違いない。
 彼女はこの町で大切な人を二度も失ったのだ。
 それはこの町へ来ることもためらうはずだ。
「アヤメちゃん……」
「私の本当の名前は『アヤメ』ではないの」
「え、それはどういう……」
 ことだろうか。
 アヤメちゃんはアヤメちゃんなのではないのだろうか。
「『アヤメ』というのはその大切な人の名前。私の本当の名前は『藍』というの」
 俺は衝撃の事実に言葉が出ないでいたが、混乱した頭を懸命に整理した。
 つまり、彼女は偽名を名乗っていたということだ。
 彼女はアヤメではなく、藍。
 でも、なぜ彼女は偽名を名乗っていたのだろうか。
 俺は彼女の言葉に耳を傾けた。
「心臓に重い病気を持っていたアヤメは、もともと一人で死ぬためにこの小さな港町へとやってきた。彼女の父親は医療系の研究所の所長だった。大きな病院に入れば何か助かる手立てがあったかもしれない。けれど、彼女は家庭の問題から自分の殻に閉じこもっていた。都会の喧騒から離れるために、田舎で静かに死ぬことを選択したの」
 そして、藍とアヤメという人は出会ったのだ。
 誰もその名を知らないような、小さな港町で。
「でも、私と出会ったことで、アヤメは変わっていったのだと今では思うの。彼女は互いに孤独を知る者と出会い、生きることに前向きになっていった。実際に、彼女と過ごした日々は、私の人生の中でもっとも楽しい夏の日々だった……」
 アヤメちゃんは悲しげな瞳で川を見つめていた。
「でも、アヤメも長くはなかった。私は彼女が病院で寝込んでしまった時に、彼女の父親の元へ引き取られることになった。私はそれでもアヤメの傍に居つづけた。いつまでもくっついて離れない私のために、アヤメは私を自分の姿に似せてくれた。彼女が梳かし、切りそろえてくれた髪をした私は、驚くほど彼女と似ていた」
 俺はその時、理解した。
 彼女が渓流に来る理由を。
「もしかして、アヤメちゃん……いや、藍ちゃんが渓流に来る理由って……」
 俺が言うと、彼女は黙って靴を脱ぎ、水の中へと入って行った。
 俺も彼女の後に続く。
 水の流れがゆっくりになった川の水面には、俺達の顔が驚くほどよく映っていた。
 揺らぐ水面に移る顔は、笑ったり、怒ったり、喜んだり、哀しんだりした。
「ここは今から八年前、私がアヤメを連れて行く約束をした場所。ここに来た時だけ、私は再び彼女と会えた気がするの」
 水面は自らの面影を映し出す。
 自ら『アヤメ』の生き写しとなった彼女にとっては、大切な人の面影に写るのだろう。
 藍という少女は、アヤメという女性の面影を背負い続けて、これまで生きてきたのだ。
「十七年生きた彼女の最後はあっけなかった。人の死なんてよくあること。でも、なんで人は、大切な人が亡くなった時、こんなにも涙が止まらないのかな……」
 渓流に写る彼女の姿に、一粒の波紋が広がった。
 見れば、彼女の瞳から涙が零れ落ちていた。
 涙は渓流に流れ落ち、澄んだ水に溶けて消えた。
「今まで誰にも言えなかった。都会で私はいつも一人きりだった。でも、アヤメもこの苦しみを耐えてきたんだって考えた。人と交わらなければ、彼女を理解できると思った。だから、都会ではずっとそうしてきた」
 彼女は、心を閉ざした『アヤメ』を理解するために、自ら心を閉ざしているように振舞っていたのだ。
 彼女は『アヤメ』になりきろうとしていたのかもしれない。
 先に短い生涯を終えた、彼女の分まで生き続けるために。
 そうやって彼女は、今まで大切な人に寄り添って生きてきたのだろう。
 でも、それはあまりにも悲しすぎはしないだろうか。
 彼女の心の寄り所は、自らの姿が映し出す、『アヤメ』の面影だけなのだから。
「私には生まれつき、居場所がないの。だから、少しの間だけでも、私に居場所を与えてくれたあなた達と、私は出会えてよかったとそう思ってる。特にあなたとは」
 彼女からそう言われて、俺はなんだかむず痒くなった。
 でも、なぜ、俺を特別扱いしてくれるのだろうか。
「私はこれからも『アヤメ』として生きていくつもり。だから、あなたにだけは、私がかつて『藍』であったことを、知っていてほしいの」
 それが彼女の秘密だったのだ。
 そして、彼女は俺にそれを教えてくれた。