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青空夏影 面影は渓流に溶け入りて

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 でも、そのことは藍には言わず、二人で渓流へと向かった。
 綺麗な川の流れでも見れば、何もかも洗い流せてしまうんじゃないかと考えた。
 川の上流へと行くには、切り立った崖に作られた、長い農道を登る必要があった。
 くねくねと山へと続く農道に沿うようにして、段々畑が作られている。
 木の年輪を重ねるようにして、この町の開拓が進められてきたのだろう。
 そんな段々畑からは小さな港町が一望できた。
 私は道を上がるたびに、休めるところを見つけては、そこに立ち止まりながら、町と海を見ていた。
 藍は相変わらず、私の傍で楽しそうに遊んでいる。
 今しがた捕まえたトンボを嬉しそうに見つめている彼女と、その後ろに広がる果てしない海と空を見つめながら、私はふと息をついた。
 幼かった頃の私、小さな港町を目指していた。
 いつまでも変わらない町並みと、いつまでも変わらない人たちと、この果てしなく広がる海と空に囲まれながら、私は生きている。
 かつて私が望んだ、理想の暮らしが、今ここにある。
 急な動悸を覚えた私は、その場に膝を折った。
「アヤメ、どこか悪いの?」
 私の異変に気がついた藍がすぐさま駆け寄ってくる。
 私は痛む胸を押さえながら、彼女に聞いた。
「藍、ここは好き?」
「え?」
「この小さな港町は好きかって」
「うん。大好きだよ!」
 藍は元気よく答えた。
「アヤメは?」
「ええ、私も大好きよ。この町が。もちろん、あなたもね、藍」
 藍はニヘヘ、と笑って再び走り出す。
 青空の下で、笑う彼女がいる。
 そして、決まって彼女に笑い返す私がいる。
 私は、これで十分だったのかもしれない。
 突然、周りの音が聞こえなくなって、遠くの水平線は大きく揺らいだ。
 自分が倒れたことさえ、わからなかった。
「アヤメ……?」
 振り返る藍に、私は何かを言おうとしたが、声が出せなかった。
「アヤメ、どうしたの!? アヤメ、アヤ……」
 藍の声が途切れたように聞こえた。
 私の瞼は勝手に閉じ、意識もそこで途絶えた。


 ……夢を見た。
 お母さんの夢だった。
 お母さんは海も山も家もない、広くて白い草原の真ん中で、一人で佇んでいた。
 お母さんは後ろを向いたまま、何も言わなかった。
 だから、私も何も言わずに、ただお母さんを見つめ返していた。
 言いたいことはたくさんあったけれど、言えなかった。
 声が出せないわけじゃなくて、ただ、言いたくなかっただけなのかもしれない。
 今、お母さんに声をかけたら、今見えて、感じているものが全て消えてしまうようなそんな気がして。
 だから、私はこの温かくも悲しい光景を、いつまでも黙って見つめていた。
 ふと、お母さんがこちらを振り向く。
 私の表情をもっと明るく、瞳を優しげにしたような懐かしい顔で、お母さんは微笑んだ。
『私だよ、お母さん。アヤメだよ。大きくなったんだよ』
 たまらずに私がそう叫ぶと、お母さんは優しい笑みのまま、黙って私の手をとった。
 お母さんの手はいつもひんやりとしていた。
 でも、私の心はどこか温かくなった。
 お母さんは、何かを伝えようとしていた。
 でも、それが何なのかは私にはわからなかった。
 私はいつまでもお母さんと一緒に居たい気持ちだったが、急に辺りが眩しく輝いて、私の意識はどこかに引っ張られていった。


 気がつくと、私に目の前には白い天井があった。
 どこからか電子音が聞こえる。
 見ると、私の横には見慣れない機械装置があって、心電図が弱々しい波を打っていた。
 ふと、自分の手にひんやりとした感触を覚えた。
 ベッドの横では髪の長い少女が、私の手を握ったまま眠っていた。
 その少女はなんとなく、母と面影が重なった。
 私は少女の顔を隠している髪をどける。
 そこに寝ていたのはなんと藍だった。
 彼女の髪は背中まで伸びていた。
「アヤメ……?」
 目を覚ました藍は、眠そうな目をこすりながら、私の名前を呼んだ。
「藍、知ってる? 手が冷たい女の人は優しいのよ」
 私がそう言うと、彼女の瞳が一気に潤んだのがわかった。
 藍は泣きながら私に抱きついてきた。
「よかった……アヤメ、あれからずっと寝たままだったんだよ」
 私は、後から駆けつけた医師から説明を受けた。
 どうやら私はあの後、隣町の病院まで運び込まれたらしい。
 それから、ずっと意識を失ったままだったそうだ。
 私が再び目覚めたことに、医師達はとても驚いていた。
 藍はあれから、正式にあの人に引き取られることが決められたそうだ。
 でも、藍は私の元を離れることを強く拒んだ。
 今、彼女は、私が仲良くなった小さな港町の住人達に支えられながら、あの家から、この病院へ毎日のように通っているという。
 私は涙が出るような思いでそれらを藍から聞いた。
「藍、話したいことがあるの」
 数日が経ち、いろいろと心の整理がついた日に、私は藍に話すことを決めた。
「いやだ」
「聞いて」
「いやだよ、そんなこと、聞きたくなんかないよ!」
 彼女は私の言わんとしていることがわかるようだった。
 医師から、あるいは、あの人から既に聞いているのかもしれない。
「お願い、大事なことだから聞いて」
 私は藍を引き寄せると、腕で彼女の頭を抱きしめた。
「聞こえる? この音ね、もうすぐ止まっちゃうんだ……」
「お願い……アヤメ、死なないで……! 死んじゃいやだょ……」
 藍は泣きじゃくっていた。
「いつまでも子供じみたこといわないの。ほら」
 私は指先で、藍の涙を拭った。
 私の病室は個室で、丁度ベッドの脇に洗面台があった。
 藍を鏡の前に座らせ、私がベッドに座ると、ちょうど美容室のような格好になる。
 私は藍に持ってきてもらった荷物の中から、私の使っていた櫛とヘアピンを取り出した。
 櫛で藍の長くなった髪を丁寧に梳かす。
 まっすぐに梳かした後、前髪をハサミで切りそろえた。
「ほら、見て藍。私にそっくり」
 鏡の向こうでは、私にそっくりな女の子が目を丸くして自分を見ていた。
「お姉ちゃんだ……」
 藍は頬を赤らめて、なんだか照れくさそうにしていた。
 その後、私達は病室の窓からシャボン玉を飛ばした。
「シャボン玉、飛んだ、屋根まで飛んだ」
 私が歌うと、藍も続けて歌う。
「屋根まで飛んで、壊れて、消えた」
 今はここから、あの場所へとシャボン玉を飛ばすことしかできないけれど、もし、いつか元気になれたら、小さな港町で藍と同じことをしたい。
「元気になって家へ帰れたら、また一緒にシャボン玉を作りましょうか。そしたら、今度こそ連れてってね、藍のとっておきの渓流に」
「うん、約束だよ!」
 シャボン玉は風に導かれ、小さな港町の方へと飛んでいった。
 それが、私と藍の、最後の思い出になった。


9、面影は渓流に溶け入りて


 朝のひんやりとした空気の中、海辺をカモメ達が飛んでいた。
 防波堤には赤い自転車が停まっている。
 浜辺には、夏結と飛鳥ちゃんが朝早くから来ていた。
 二人は貝拾いをしているようだった。
 町の方から三つの人影が現れる。
「マコト、おはよー」
「みんな、おはよう!」
「マコト君、早いんだね」