青空夏影 面影は渓流に溶け入りて
朝が早かったのだ、それは眠くもなるだろう。
眠れるお姫様、とそんなことを思って眺めていた。
俺が海と彼女を交互に眺めながら弁当を食べていると、後ろの座席から夏結がひょこっと顔を出した。
彼女は俺を見ると、口元に指を立てた。
もう片方の手にはインスタントカメラが握られている。
夏結は音を立てないようにして、それを寝ている彼女へと向けた。
気配を察して、何事かと目を覚ます飛鳥ちゃん。
その目の前にはカメラがあった。
「ひゃあっ」
カシャッ。
飛鳥ちゃんはとっさにカメラを振り払おうとしたが、間に合わなかった。
「ちょっと夏結! 今撮ったの!?」
「残念でしたー、遅かったね」
「もう、夏結ったら! どうしてマコトさんも起こしてくれないんですか!」
「え、俺?」
ことの成り行きを見守っていた俺だったが、彼女の怒りがこっちまで飛び火してきた。
カメラには、飛鳥ちゃんの変顔が収められているであろう。
そのカメラを取り合う二人を、俺は笑いながら見ていた。
しばらくして小さな駅に降り立った。
そこは海の近くの山間に佇む駅で、改札も何もなくて、古びた待合室と無人の改札だけがあった。
彼女達について駅を出た俺だったが、しばらくして二人の様子がおかしいことに気が付く。
「ここどこなん?」
夏結が言った。
「さぁ……」
飛鳥ちゃんも首を傾げる。
「降りる駅を間違えたかな?」
「でも、ここでいいはずなんだよね」
「二人とも、自分達の町への道じゃないの?」
俺はキョロキョロと辺りを見渡す二人に聞いた。
「京都へ行く時は隣町からバスを使ったんです。電車で帰る道は私もすいぶんと使っていなくて……」
「私もここの電車を使うのは久しぶりだしね」
どうやら二人はあまりこの路線を使い慣れていなかったらしい。
夏結は飛鳥ちゃんが被っていた麦藁帽子をひさし代わりにして、向かうはずの道の方向を見ていた。
「私、おばあちゃん家に電話して確認してみるね」
飛鳥ちゃんは近くの公衆電話で受話器を手に取った。
その後、彼女が確認したところ、どうやら間違いではないようだったが、しばらくの間、バスを待たなければならないらしかった。
俺達は木陰で他愛もない話をしながらバスを待った。
近くの商店でアイスを買って、三人で食べた。
やがて一台のバスがのろのろとやって来た。
バスは俺達の前で停車したが、中は誰も降りてこなかった。
バスに乗り込むと、乗客は俺達だけだった。
そういえば、電車を降りた時も俺達だけだったような気がする。
バスが走り出し、海沿いの短いトンネルを幾つかくぐる。
波が長い時間を掛けて山肌を削り、海には広大な磯ができていた。
確かこういうのをリアス式海岸というのだろうか。
三十分ほどをバスに揺られて、俺達は小さな港町へと辿り着いた。
「降りるよ」
夏結の合図で俺達はバスを降りる。
そこは酷く小さな港町だった。
山と海の間に出来た小さな扇状地に、人家が必死でくっついているような感じの町だ。
長い間、海風に晒されて黒ずんだ家々が、なんともいえない風情を醸し出していた。
俺達は着いた足で、そのまま港へと降りた。
「ここは何も変わらないね」
夏結はまるで何かを懐かしむかのような口調で、港に陸揚げされた船を手でなぞるようにして歩いた。
「それでも、海水浴場が出来たから、人は来るようになったんだ」
飛鳥ちゃんは説明するように言った。
ふと、俺は疑問に思う。
夏結は「私達の町」と言っていたが、彼女のしぐさは、まるでこの場所に何年も訪れていないかのようだった。
少し寂しげな夏結の背中を見つめながらついて行くと、防波堤の先端に佇む、白い灯台まで辿り着いた。
夏結は白い灯台を背に寄りかかり、潮風に当っていた。
そんな彼女に京都で出会った時のような健気な様子はない。
彼女の視線の先を見ると、この小さな港町とはまるで釣り合わない広い海岸があった。
しばらくその場から海と町を眺めた後、俺達は砂浜を目指すことにした。
その海水浴場には人はいなく、海の家もがらんどうとしていた。
「貸し切りだね」
夏結はそう言いながら、海の家に荷物を置くと、目の前で服を脱ぎ始めた。
俺は突然のことに慌てたが、見れば、彼女は既に水着姿になっていた。
彼女達は既に下に水着を着ていたのだ。
「君は泳がないの?」
夏結が着ているのは、スポーツタイプのビキニだ。
無駄なく引き締まった身体からは、彼女が運動部であることがよくわかる。
「泳ぐって、俺のこの格好でどうやって」
「マコトさん、もし泳ぐなら、水着はそこの売店で買えますよ」
せっかくなので、俺は飛鳥ちゃんに教えられた売店で、海パンを一つ購入した。
俺だけ海の家で黄昏れているのもなんだか手持ち無沙汰だし、第一、どこかへ行くにも俺はこの小さな港町をよく知らない。
それなら彼女達と一緒に泳ぐ方がいいと考えた。
「あはは、なにそれ、ちょっと派手だよー!」
「うるさい、これしかなかったんだよ」
蟹のイラストが描かれた海パンを着てきた俺を見て、夏結が爆笑した。
こんな時にも、申し訳なさそうな顔をしている飛鳥ちゃんは実に優秀な子だ。
それにしても、夏真っ盛りだというのに、海水浴場にほとんど人がいないのは何故なのか。
そのためか、海パンの品揃えも悪かった。
「まあ、とにかく今日は思いっきり泳いでやるさ」
「ずいぶん張り切っているんだねー」
夏結が訝しげな視線を送ってくる。
別に女の子と泳げるからというわけじゃない。
理由は他にあった。
「俺、いや、俺達にとってはこれが最後の夏休みになるからさ」
俺の言葉に、夏結と飛鳥ちゃんは驚いたような顔をした。
「君も私達と同じなんだね」
「え?」
だが、もっと驚いたのはこっちだ。
その理由を飛鳥ちゃんが説明してくれた。
「私達は小学校の時に学校が閉鎖されてしまって、実は私、その時に隣町に移り住んだんです。夏結はいろいろあって、小学三年生の時に別々の学校になってしまって……」
俺はなぜ、彼女達がお金を貯めては、あちこちに旅行へ行ったりしているのかが初めてわかった。
飛鳥ちゃんによれば、彼女は高校からこの町に再び戻ることを決め、今は祖母の家からバスを使って隣町の高校まで通っているそうだ。
夏結はまた別の町の高校なのだが、二人は連絡を取り合って、頻繁に会っているらしい。
きっと腐れ縁というやつだろう。
夏結はこの小さな港町へ戻ってくるのは一年ぶりだそうだ。
自分の生まれ故郷である場所に、戻りたくない理由でもあったのだろうか。
この町へ着いてからというもの、彼女はどこか元気がないような感じだ。
「さあ、飛鳥! 泳ぐよ!」
でも、それは余計な心配だったようだ。
飛鳥ちゃんも水着になった途端、夏結が水を得た魚のように彼女を連れて走り出した。
飛鳥ちゃんはスクール指定の水着だったが、それが逆に彼女らしかった。
彼女まで朝から水着を着ていたということは、二人とも元から泳ぐ気満々だったのだ。
俺も負けじと彼女達二人に続いた。
作品名:青空夏影 面影は渓流に溶け入りて 作家名:如月海緒