青空夏影 面影は渓流に溶け入りて
私達が家についた時、雨は小降りになっていた。
老婆の家にはたくさんの人たちが集まっていて、冷たくなった老婆を囲んでいた。
医者が既に死亡診断を下した後だったようだ。
「もともと長くはなかったからなぁ」
「あの子はどうするんだ?」
「どこにも引き取り手がいないとなると……」
藍が近くにいることも知らず、そんな気遣いがない会話が中から聞こえてきた。
それを聞いた藍は、突然走り出した。
「藍!」
私に彼女を止める術はなかった。
町の人達は、それでようやく藍の存在を認識し、まずいことを言ってしまった、という表情を浮かべていた。
私は彼らを睨みつけるようにして言った。
「藍は私が引き取るわ。もう藍のお婆さんとも話がついている」
「おいおい、おめぇ正気か」
「引き取るったって、お前さんもまだ子供じゃないか」
口々に挙げられるそんな言葉を振り切って、私はその場に背を向けた。
藍はどこへ行ったのだろうか。
彼女は今、とても辛いはずだ。
私が傍にいてあげないと……。
そう思いながら、路地に出たとき、私の目の前に子供がいた。
私は思わず足を止めてしまった。
藍ではない。
「!?」
その顔を見て、私は驚愕した。
直後、その子が逃げる。
私も反射的にその子の後を追った。
しかし、狭く複雑な町の路地を曲がったところで、その子を見失ってしまった。
私は塀にもたれかかった。
私の心臓は破裂しそうなくらい、鼓動を打っていた。
急に走ったからだけではない。
私は、胸を押さえつけるようにしてその場にうずくまった。
あの姿には見覚えがあった。
あの女の子は、私の姿をしていた……。
それから数日、私は藍の姿を見つけることはできなかった。
自治会の人達や、動ける町の人達が総出で彼女を探したが、藍はまるで猫のように姿を消した。
あの子は何処へ行ってしまったのだろうか。
私は、また一人になった。
望んでいたはずのことなのに、その事実は私の胸を酷く締め付けた。
でも、もっとも私を苦しめていたのは、今、どこかで藍を一人にさせていることだった。
藍の変わりに、私の前にあの女の子が現れるようになった。
女の子は決まって私の姿を見た後、背を向けて逃げた。
その日も、藍を探していると、彼女は現れた。
日本人形のように艶やかな、背中まである髪は、柳眉の上で切りそろえられている。
虚ろに世界を写す黒い瞳には、私の姿がはっきりと移っていた。
女の子は私と目が合うと、すぐさまその場から逃げ出した。
「待ちなさい!」と私が言っても、女の子は止まなかった。
走って追いかけられない私は、叫ぶようにして女の子に聞いた。
「どうして逃げるの? あなたは何者なの? 藍はどこにいるの?」
すると、女の子が初めて立ち止まった。
女の子は、町の北側にある海にせり出した崖の方を見た。
そこは、私と藍の秘密の場所がある方向だった。
「あそこに藍がいるの?」
振り返った時、既にそこに『私』はいなかった。
私はあの場所へ向かうことにした。
そこなら、町の人たちが藍を見つけることができなかったのも納得できる。
どうして私は、早くそのことに気が付かなかったのだろう。
ただ、その場所に藍がいる可能性は低かった。
人が近づくような場所ではないからだ。
その場所へは、岩肌に沿って作られた階段を上らなければならなかった。
焦る気持ちが、心臓に針を突き刺す。
もし、ここで発作を起こしたら、私は間違いなく死ぬだろう。
それでも、私は藍と……藍と一緒にいたかった。
彼女のおかげで、私はここまで変われたのだから。
森を抜けると、海に向かってせり出した断壁の上で、藍とあの子が遊んでいた。
「藍!」
私は彼女の名前を叫び、近づこうとした。
藍は酷くやせ細っている顔を、私に向けた。
「おねぇちゃん、誰?」
「えっ」
「ねぇ、アヤメ、この人のこと知ってる?」
隣にいる『私』も首を振る。
藍は痩せこけた頬で笑っていた。
私は藍と女の子が遊ぶ傍で、立ち尽くすしかなかった。
私は、幻覚を見ているのだろうか。
ふと、『私』が私を見る。
「この子、死ぬわ」
「……どういう事?」
私は睨み返すように『私』を見た。
「他でもない、あなたが殺すの」
女の子の声は、直接、私の頭の中に響いてくるかのようだった。
私は老婆が亡くなった時、藍に何もしてあげられなかった。
まして、すぐに見つけてあげることもできなかった。
もし、藍が死んでしまったら。
彼女がいなくなってしまったら。
「嫌よ、聞きたくない……そんなの聞きたくない!」
『私』は立ち上がると、私の方に向かって歩いてきた。
「ねぇ、今幸せ?」
その女の子の瞳には見覚えがあった。
全てに絶望して、自らの殻の中に閉じこもっていた小学校の頃の私の瞳だ。
瞳の色は、深い、深い、暗闇にゆっくりと堕ちていくような黒だ。
「ねぇ、あなた今幸せ?」
「私に触れないで!」
女の子が私を掴もうとしたのを振り払う。
私の手は空を切った。
女の子は、目の前から跡形もなく消え去っていた。
断壁のところに、藍が倒れていた。
「藍!」
駆け寄って私は藍を抱き起こしたが、藍は私の腕の中でぐったりとしていた。
「アヤメ?」
病室の机で仮眠をとっていると、私の名前が呼ばれた。
顔を上げると、きょとんとした表情の藍が、ベッドから丸い瞳で私を見つめていた。
「目が覚めたのね」
私は安心した自分の気持ちを伝えるために、彼女をそっと撫でた。
藍の症状は軽い衰弱で、町の診療所でしばらく点滴をしていればよくなるとのことだった。
「アヤメ、ずっといてくれたの?」
「ええ。元気なったら、またカブトムシを捕まえに山まで行きましょうか」
「それ約束だょ」
「ええ、約束よ」
病室の窓から青い風が入ってきた。
煌く夏の青空の下で、私達の夏休みが始まろうとしていた。
『あなた今幸せ?』
ふと、女の子の言葉が脳裏に響く。
あの女の子は、ひょっとして小さい頃に置き忘れた私の面影だったのではないだろうか。
今ではそう考えている。
彼女が幻だったとしても、遠い記憶の中に置いてきてしまった、一人ぼっちの私自身であることは代わりがないのだから。
だから、私は女の子に答えた。
「ええ、とても幸せよ」
もうあなたは一人ぼっちじゃない。
6の1、初めての京都旅行
よく晴れた日の朝。
大きなボストンバックに荷物を詰めた俺は、みんなが待つ村はずれのバス停へと向かった。
「行ってきまーす」
「おう、行って来い。気をつけてな」
見送ってくれたのは親父だ。
親父といっても、本当の父親ではない。
そもそもこの人は結婚をしていない。
小さい頃、身寄りがなかった俺を引き取ってくれた人だ。
両親はすでに亡くなって久しいらしい。
というのも、俺はまだ幼稚園へ入る前に、この人に引き取られたから、その頃の記憶がまったくない。
でも、俺は本当の両親が誰かなんてどうでもよかった。
これまで、何一つ不自由なく育ててもらったからだ。
親父に見送られて、俺は家を出た。
作品名:青空夏影 面影は渓流に溶け入りて 作家名:如月海緒