ルーツ
青年とは再び会話が増えていき、麻由にとってもそのひと時が待ち遠しく感じられてきた頃のことである。
ようやく客も途絶えて、乱れている椅子を元に戻している時に、椅子と壁との間に落ちている本を見つけた。厚みのある本で、表紙は取り除かれて茶色いカバーがしてある。外表紙を開いてタイトルを確認した。
『松本清張傑作選』とある。
今時こんな古い本を読む人もあるんや、面白いんかな、と思いながらおばちゃんに告げた。
「おばちゃん、本の忘れもんやわ。どないしょ。松本清張の本」
「へぇ、今時にしては珍しい本やねぇ。推理小説やろ、『点と線』とか『飢餓海峡』とか」
「おばちゃん、『飢餓海峡』は水上勉ちゃうかなぁ」
「どっちも夢中になって読んだもんやけどねぇ。そこの棚に置いとき。取りに来はったら渡したげるよって。麻由ちゃんはそろそろあがる時間やろ、お疲れさん」
目次を眺め面白そうなタイトルを見つけて、そのページをめくってみた。拾い読みしている間に、“1950年”“小倉”“黒人部隊”などの文字に目が釘付けとなってしまったのである。
急いで帰り支度をして、自転車を図書館に向けた。
幸いにして在架していた『松本清張傑作選』の表紙は、角が擦り切れてしまっているほどに読み込まれていた。
夕食後、自室に入るとさっそく読み始めた。
目的のタイトルは、『黒地の絵』。
1950年7月11日は、小倉祇園祭の前夜であった。同年6月に勃発した朝鮮戦争は、撤退を続ける米軍を不利な状態に追い込んでおり、白人兵がほとんどであった小倉市の城野補給基地には、黒人兵が次々に補給されるようになり戦地へと送られていた。
ところが祇園祭の、太鼓の練習する音が遠くから響いて来ておりその旋律が、基地にいる岐阜から送られてきたばかりの黒人兵250人の肉体に、陶酔的な衝動を起こさせた。前線に投入されることを知っている彼らは絶望的な恐怖と抑圧された衝動を刺激されて、カービン銃やライフル銃、手榴弾携行という完全武装をして、周囲を鉄条網に囲われている兵営の庭から、外に通じている大きな土管を通って脱走したのである。
麻由は、これは歴史に絡めた創作なのか事実なのかを知るためにネット検索をした。
《小倉黒人米兵脱走事件》として、事実であったのを知る。
逸る気持ちで続きを読んでいった。
黒人兵たちは小さなグループに分かれて店に押し入り、酒を飲み、棚のウイスキーをごっそり持ち去った。近在の民家に押し入り、酒を奪い乱暴をし、そして・・・。
麻由はそれ以上先に進めなかった。
本を閉じ、ネットで再度調べてみた。
先ず、《朝鮮戦争》について。
日本は、国鉄・海運による輸送、人員・弾薬・砲弾の補給に協力している。門司・神戸・佐世保・横浜の港では将兵や避難民の輸送のために、貨物船や商船が韓国を往復。日本の14カ所の病院が野戦病院となっている。日赤看護婦はほぼ強制的に協力させられ、一般の看護婦も高給で雇われている。
1950年6月29日午後10時15分には、福岡市・北九州一帯と山口県西部に、警戒警報が鳴り、灯火管制が強いられている。
それらの事態は、機密保持命令により報道されていない。日本のほとんどの国民は、日本国内でそのような事態が発生していたことは知らなかったのである。
《小倉黒人米兵脱走事件》にしても、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部――1952年廃止)が報道管制を敷き、北九州地区の新聞が詳細は分からないままに小さく掲載したのみで、他の地区、全国の国民には知らされることはなかった。
MP(アメリカの憲兵隊)だけでは手のつけようがなく、アメリカ陸軍二個中隊が出動し銃撃戦となっている。照明弾を打ちあげながら機関銃の射程内に置いた黒人兵をジープで追い詰めキャンプに追い込んだ。二十ミリ口径の機関砲を積載した装甲車も出ている。
近くの足立山に逃げた者は捜索隊が山狩りをし、麓の要所で下山してくる脱走兵を逮捕。12日の夕方に鎮圧した。
警察は市内から城野方面に至る交通を遮断。しかし鎮圧に参加することは許されなかった。ニュースカーで市民に危険を知らせ、戸締まりを厳重にするよう警告したが、曖昧表現しかできなかった。
「戸締まりしてください」、「外出しないでください」の呼びかけだけでは、市民の緊迫と不安をかえって増大させた、とある。
被害の届け出は約80件。暴行・強盗・脅迫などで、婦女暴行は申告されていなかった。