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秋田犬ビクと杏子さん

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 思いがけない言葉に感激し、深い関係になってしまった。
 何度か逢瀬を重ねるうちに月のものが止まり、それを告げると彼の態度が豹変した。
 「オレの店は十四代続く西陣の老舗や。嫁は将来女将になって店を切り盛りせなあかん。嫁の資格は女将が勤まるかどうかや・・」
 「女将が勤まるかどうかは親が判断しよる。俺がなんぼ気に入っても、親が承知せんとあかん。お前は絶対認めてくれん。子供は作らんといてくれ」
 泣いてKの不実をなじったが、後の祭りである。
 「小さい頃から日本人と付き合うな、遊ばれるだけや」と耳にたこが出来るくらい聞かされていたから、つくづく自分が甘かったのだと思い知らされた。
 後日、彼は「目にしたことのない大金」、「外車が買えるほどの金」を包んで寄越し、幸い彼女は妊娠していなかった。
 しかし、親が手を回したのか、呉服屋を「寮の掟を破った」と言う理由で解雇されてしまった。今春のことである。



 遊び呆けた小学校最後の夏が終わろうとしていた。
 遊びに飽きて新学期を待ちわびたが、宿題が一向に片付いていない。夏の終わりのアンビバレンツな気持ちを焦らすようにツクツクボウシが鳴いていた。ピークの過ぎた裏庭のヒマワリが色褪せて大きな頭を垂れていた。
 その日は朝から八幡神社の祭り太鼓が轟いていた。八幡さんの祭りは夏祭りの締め括りで、近在から人が集まり夜店が軒を連ねる。子供たちは夜店が楽しみで、小遣いを握って夜の到来を待ちわびていた。
 そんな夏の夕暮れ、杏子さんがビクを連れて現れたのである。
 爽やかな浴衣姿が仄暗い路地裏をパッと明るくした。たむろしている僕を見つけると手招きした。
 「ちょっと手伝ってくれる」
 湯浴みしたのか、ホンノリ上気して艶やかであった。海岸に向かって歩きながら言った。
 「Kさんから、仕事で寄るって連絡があったの・・」
 「海岸通りの松屋旅館って知ってるよね。Kさんが来てるか、訊いてくれない」
 「来てたら、海岸公園で待っていると伝えて欲しいの」
 裏切られて別れた筈なのにと思ったが、ビクを連れて駆け出した。
 松屋旅館は名の通り、玄関に手入れの行き届いた見事な松が植えてある。掃除をしていた番頭が手を振った。
 「ここは子供が来るとこじゃない。帰れ、帰れ」
 用件を伝えると受付に戻り、しばらくして現れた。
 「Kって名前は帳簿に載っていない。今晩も今週も予定にない。間違いじゃないか」
 杏子さんはがっかりするだろうが、その方が良いのだと子供心に思った。
 海岸公園は落日の残照でオレンジ色に染まっていた。夕焼けはオレンジ色の水平線から上空に行くにつれ透明なブルーに変わっていく。
 杏子さんは公園の藤棚にもたれて、残照に燃えるタールのような海を見ていた。夕凪に空気は動かず、影が長く延びていた。
 「Kさん、来てはった?」
 「いなかったよ。Kって言う名は帳簿にないって、もしかすると違う旅館かも知れないよ」
 彼女は落胆する素振りもなく、刻一刻と暗さを増す海を見ていた。
 表情は分からなかったが、横顔のシルエットは人形のように整っていた。髪をたくし上げたうなじ、広い額から形の良い鼻、愛らしい唇から長い首、シルエットの輪郭は完璧であった。
 ライトブルーの空は暗さを増し、海の群青色に近づきつつあった。遠くで漁り火がともりだした。
 杏子さんはベンチに腰を下ろし、大きく息を吐くと煙草を取り出した。手慣れた仕草で火を付けるのを見て驚いた。僕の周りに煙草を吸う女性はいなかったし、煙草を吸うのは「いけないお姉さん」だと思っていたからである。
 杏子さんの意外な、世慣れした強かな(したたかな)面を垣間見た気がした。
 最後の一服を吸うと立ち上がった。吹っ切るように言った。
 「花火しようか!花火して気分変えよう!」
 僕らは駄菓子屋で花火を買うと、陽の落ちた海岸公園に戻った。
 ビクは花火を嫌がった。火が怖いのだろう、遠巻きにして名前を呼んでも近づこうとしない。しびれを切らした杏子さんは鼠(ねずみ)花火に火をつけて投げた。鼠花火はビクの足元に落ちて弾けた。驚いたビクはパニックになって逃げ出した。
 僕らはビクを追いかけた。
 やっと、僕がビクを捕まえ、杏子さんがヨシヨシと近づいた。ビクは息を切らせて温和しくしていたが、彼女が袂に手を入れた途端、飛びかかった。
 杏子さんは横様に倒れた。
 浴衣がはだけて、ふくよかな太ももがこぼれ出た。
 ももからふくらはぎの柔らかな脚線、陶器のように綺麗な足、紅い鼻緒の下駄が転がった。
 白い太ももの露わな転び姿は子供の目にも艶めかしかった。
 彼女は起き上がり、塵(ちり)を払い、着物を整えた。浴衣の胸元を整える時、僕の手をそっと掴んだ。目が妖しく光っていた。
「女はね、月に一回下りものがあって、そんな時は胸が張るんよ」
 僕の手は導かれて胸の膨らみの上にあった。
 掌(てのひら)に形良く膨らんだ乳房の張りと温もりが伝わった。股間(こかん)にゾクゾクする快感、くすぐったい衝動を感じた。全身がわなわなと震えた。
 思わず、振りほどいて走り出したが、手にはいつまでも乳房のしたたかな感触、温もりと弾力が残っていた。
 それから、僕は杏子さんを「妖しいお姉さん」と避けるようになった。



 公会堂公園の桜並木が朱色に染まる季節であった。
 大陸の高気圧が日本海に居座り、青空が高く澄み渡り、冷涼な秋風が吹き抜ける。爽やかな秋晴れの休日、プラカードや旗を持った人々が公園に集まっていた。
 「朝鮮民主主義人民共和国帰還万歳」の横幕があったから、当時よく催された帰還者激励集会であったと思う。日本海が荒れる冬前の、その年最後の帰還船でなかったか。
 中央に演壇があって、名士たちが朝鮮語や日本語で演説していた。
 子供の僕らは暇を持て余していたから、人が集まると面白いことがあるのではないかと出かけたが、その集会は抱き合う人、泣きじゃくる人、楽しげに笑う人、口論する人、酒をあおる人、知り合いを捜す人、疲れて蹲る(うずくまる)人など様々で、真面目に挨拶を聴いている者は少なかった。
 演説の後半で、白髪痩身の小柄な老人が演台に上がった。その場にそぐわない羽織袴は一瞬、会場の注目を集めた。
 その羽織袴姿に見覚えがあった。小学校の式典で挨拶した後、「日本民族万歳!」と叫んだ老人である。一億総懺悔の時代、民族主義的な言動はタブーだったから、子供心に印象に残っていたのである。
 彼は背筋をピンと伸ばし甲高い声で挨拶した。
 「戦争中はMから多くの日本人が大陸に渡った。大陸からは多くの朝鮮人が連れてこられた。この大戦では日本人も、朝鮮人も大変な苦労をした。戦争が終わった今、Mに日本人が引き揚げてくる。朝鮮人は祖国に帰ろうとしている」
 「人間が祖国を求めるのは自然である。自分の国に戻るのは良いことだ。人間は祖国の発展に尽力しなければならない」
作品名:秋田犬ビクと杏子さん 作家名:カンノ