秋田犬ビクと杏子さん
最後は、例によって「日本民族万歳!」と叫んだが、ここでは「朝鮮民族万歳!祖国建設万歳!」と付け加えるのを忘れなかった。
そこへ、爆音けたたましく一台のバイクが乗り込んできた。
風防グラスの男は黒の皮ジャンで、後ろに白いコートの女がしがみついていた。当時流行った太陽族である。人々の注視する中をこれ見よがしに旋回した後、何とバイクは僕の横に停まったのである。
??怪訝(けげん)な表情をしていると、バイクの女がサングラスを外した。
杏子さんである。
美しい黒髪を切ってパーマをかけていた。アイシャドーがきつく、口紅も真っ赤で、別人のようであった。
「ビックリした?杏子よ」
「オモニは今度の船で帰還するの。うちはこの男(ひと)と大阪へ行くわ。ビクは知り合いに預けたから心配しないでね」
「頑張ってね。バイバ~イ!」
それだけ言うと、再び爆音とともに走り去った。余りの変貌に呆然(ぼうぜん)と突っ立っていた。
今もバイクに乗った杏子さん、太陽族に変身した後姿が忘れられない。
思えば、杏子さんはまるで女優のように変幻していった。
最初会った時の、淡いワンピースの「清楚なお姉さん」
夕焼けの公園で紫煙をくゆらす「いけないお姉さん」
はだけた浴衣の太ももの露わな「艶めかしいお姉さん」
僕の手を胸元に導いた「妖しいお姉さん」
そして、最後に見せた太陽族の「ヤンキーなお姉さん」
どれも魅力的で絵になったが、彼女の言葉で心に刻まれたアドバイスが一つある。
「うちは学歴がないからね、これからは女でも高卒がいるんよ。あんたは男やから高校と言わんと、もっと上の大学まで行かんとあかんよ。勉強して大学を卒業しいや」
僕の田舎で大学へ進学した者はいなかった。Mでも都会の大学に進学したのは金持ちの息子だけである。大学に憧れていたが、僕は高校を卒業すると当然のことのように集団就職で大阪に出た。それが苦学して大学を卒業したのは、杏子さんのアドバイスのおかげでないかと思っている。
翌年、正月を北陸の実家で過ごした僕たちは、汽車(蒸気機関車であった!)に乗ってMに向かっていた。
北陸本線は海岸沿いを国道8号と平行して走っている。
冬の日本海は雪雲がたれ込め、北風が激しく、暗色の海が白い牙をむく。止めどなく咆哮(ほうこう)し続ける冬の海、沖合から押し寄せ砕ける白波、国道に飛び散る飛沫(しぶき)。
車窓から荒海を見ていた僕は、一匹の犬が粉雪混じりの雨に打たれながらトボトボ国道を歩いているのを発見した。
咄嗟に「ビクだ!」と直感し、急いで窓を開け身体を乗り出した。
「ビク~!ビク~!」
横殴りの風雨を受けながら、あらん限りの声で叫び続けた。心持ち頭を上げてこちらを見たように思ったが、汽車は無情にもトンネルに入ってしまった。
冬の日本海から吹き付ける冷たい雪雨に打たれながら歩いていた老犬・・母はビクじゃないと言ったが、僕は今もビクだったと信じている。
しかし、ビクはあの時どこへ行こうとしていたのか?
国道8号を北上していたから、もしかして、新潟に向かった帰還船、李小母さんの乗った船を追いかけていたのだろうか?
あれから半世紀・・今も8号線を走るたびに、咆哮(ほうこう)する荒海に沿って氷雨のなかを北上していた老犬、濡れそぼって痩せた身体、耳を垂れ腰を落としトボトボ歩く姿を、家族バラバラになった杏子さんの美しい面影とともに思い出すのである。
了
作品名:秋田犬ビクと杏子さん 作家名:カンノ