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秋田犬ビクと杏子さん

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 杏子さんに近づこうとする青年が多かったから、女二人のバラック所帯に心強い番犬であった。
 太い首周りを撫でると気持ち良さそうに目を細める。あるとき、小母さんが呟いた。
 「アポジが撫でると腹を出すんだ。ワシらに絶対腹を見せんけどね」
 「アポジが国に帰ったから、ビクは元気ないんだ」
 子供心に思ったものである。
 「そうか、ビクが温和しいのは年のせいじゃないんだ。小父さんがいないからなんだ。でも、どうして小父さんはビクを置いて国に帰ってしまったんだろう」
 小母さんは白髪交じりの頭を手拭いで覆い(おおい)、皺が深く前歯も欠けて、歩くときはガニ股で身体を反らせたから老けて見えた。上品な杏子さんと親子のように見えなかったが、そう言われて見ると、瓜実の顔といい、目鼻立ちといい、どことなく面影があった。
 小母さんは母のことを気に入っていた。
 「あんたのお母さんはエエ人や。日本人で、ワシのことを話したのはお母さんだけや」
 今から思うと、小母さんは心配や不安をいっぱい抱えていたのだろう。誰かに聞いて欲しくて母に語ったし、少年の僕にも話したからである。
 小父さんが国に帰った経緯(いきさつ)は次のような事情である。
 李さん夫婦は、朝鮮の南の島、済州島の生まれで幼なじみであった。そこは大きな火山島で土地が痩せて貧しく、米は貴重品で食べられなかった。
 戦前は大阪航路があって自由に行き来でき、大阪の造船場で働いていた小父さんと結婚した。二人は大阪で暮らして三人の子供をもうけたが、祖父母が年取ったために小母さんは子供を連れて島に帰った。戦争の始まる前のことである。
 戦争が始まって相次いで祖父母が亡くなり、小父さんと暮らそうと思ったが、戦局が悪化して出航が不定期になった。その間、小父さんは徴用でMの造船所に移っていた。
 「航海は危険やと反対する人もおったけど、アポジと暮らしたかった。一緒に暮らせるのなら死んでもエエと思うた。やっと船に乗れたときは、不安よりも嬉しさでイッパイやった」
 「アポジに会った時、ワシらは抱きあって泣いたよ。杏子はアポジが分からなくて怖がったけどね・・」
 「アポジは家族のためにこの小屋を作ったん。仕事の合間にトタンや板きれを集めて作ったから、ここはアポジの思いがこもっている。隙間風が吹いても、雨が漏っても、ワシらには温かいのよ」
 しかし、大戦が終わると李さん一家の親子水入らずの生活は終わる。
 「済州島で育った長男は日本に馴染めなかったね。島に彼女がいたから戦争が終わると帰ってしまった。そのうち島で蜂起が始まって大変なことになった」
 心配した小父さんは秘かに戻ったが、島は南北に割れて殺し合う状態で、長男に会うことが出来なかった。噂では長男は政府軍に殺されたらしい。
 「アポジはふる里に戻れないと絶望したよ。頼りの長男を殺した政府軍を激しく恨んだね」
 朝鮮戦争が始まると、在日朝鮮人の分裂は決定的になった。
 次男は、兄を殺されたせいか、総連の学習会に出るようになり、北の共和国を理想社会だと言うようになった。帰国運動が始まると、帰って祖国建設したいと言い出した。
 夫婦に共和国に身寄りはなく困惑したが、長男亡き後は次男が頼りだから、悩んだ末、小父さんは様子を見るため次男と一緒に帰国したのである。去年の春である。
 ふと小母さんが漏らしたことがある。
 「理想って、戦争中のように家族一緒に仲良う暮らすことやないか。そやから、アポジが来いと言えば杏子を連れて帰ろうと思てる。共和国は仕事も生活も保障してくれる言うし、親子水入らずが何よりやからね・・」
 そのとき、バラックの奧から杏子さんの鋭い声が届いた。
 「オモニ、ウチは帰らないよ。朝鮮語は分からんし、絶対に帰らないからね!」
 小母さんは困惑して言った。
 「そんなこと言うたってお前、日本は自分の国じゃないよ。バラックの仲間も帰るし、人は年を取ると自分の国が恋しくなるもんだよ」
 杏子はなじるように言った。
 「オモニはアポジと朝鮮で一緒に暮らせばいいじゃない!うちは日本が嫌いじゃないし、日本で暮らすわ!」
 小母さんはクシャクシャの顔を曇らせた。
 「そんなこと言うても、家族は自分の国で一緒に暮らすのが一番なんだよ・・」



 当時、杏子さんは二十歳そこそこでなかったか。
 泥中の白蓮と言うが、容姿といい、雰囲気といい、土手下のバラックが似合わなかった。似合わないと言うより、バラックに住んでいるのが信じられなかった。ピアノの聞こえる山手のお屋敷がふさわしかった。
 色白の瓜実顔に切れ長な目と紅い唇が印象的であった。目鼻立ちが凝縮している感じで、顔の焦点がハッキリしていた。しなやかな黒髪を後ろで束ね、うなじが匂いたつようであった。スラリとした姿態で、淡い花柄のワンピースがよく似合った。
 杏子さんがいるだけで周りが明るくなった。子供の僕も妙に気持ちが浮きたった。ビクと遊んでいたが、杏子さんのことも気になった。
 ある時、所在なげな彼女がここに戻った経緯(いきさつ)を語ってくれた。
 杏子さんは、中学校を出ると紡績工場に集団就職したが、出入りの業者が彼女を見染め、「女工には勿体ない」と京都の呉服屋に紹介したと言う。
 清楚な彼女は和服が似合ったから、呉服屋の看板娘にピッタリだったのだろう。
 呉服屋は杏子さんを一人前にしようと、本店住み込みで着付けや振る舞い、接客や帳簿を仕込んだ。
 美しい容姿に言い寄る青年も少なからずいたが、本店住み込みの見習いで異性と付き合う余地はなかった。二年余りの見習いの後、大手デパートに配属され本店住み込みから解放された。そこで、西陣のぼんぼん、Kと言う青年と付き合うようになったのである。
 「浜村淳ていうディスクジョッキー知ってる?」
 「京都放送に出てはる人、うち、あの人の番組が楽しみなんよ。京都弁が懐かしいし、付き合ってたKさんに似てはるの」
 「Kさんはデパートの外商してはって、西陣の跡取りとかで見習いに来てはったんよ。うちらのような店員にも愛想が良うて、プレイボーイと噂されてたけど、女の子は内心声のかかるのを待っていた」
 「それがうちはすぐに誘われた。他人には言えんけど嬉しかったわ」
 二人は秘かにデートするようになった。
 ぼんぼんのKは外車を乗り回して、京都近郊のドライブに誘ったらしい。外車が珍しい時代だったから、田舎道をドライブすると子供たちが追いかけてスターのような気分になったと言う。何もかも珍しい贅沢な体験で夢中になったが、余りに身分の違う付き合いが重荷になってきた。
 「うちは木下って言うけど、本名は李で朝鮮人やろ。日本人との結婚は無理やし、深入りせんうちに別れようと思ったんよ」
 ある日、別れようと決意して、朝鮮人であることを打ち明けた。
 ところが、Kはあっさり否したのである。
 「朝鮮人言うても、日本人と同じやないか。日本とか、朝鮮とか、そんなことは関係あらへん!」
作品名:秋田犬ビクと杏子さん 作家名:カンノ