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秋田犬ビクと杏子さん

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秋田犬ビクと杏子さん

 かれこれ半世紀近く前のことである。
 小学生の僕は北陸の草深い寒村から日本海の軍港都市Mに移り住んだ。Mには爆撃された建物や座礁したタンカーなど戦争の傷跡が残っていたが、大陸からの引き揚げや朝鮮戦争の勃発で活気を取り戻し、復員して田舎の農業を手伝っていた父が定職を得たのである。
 移り住んで間もなく、近所の住民が公会堂公園でお花見会をしてくれた。
 お花見会と言っても、弁当を持ち寄って会食することで、その日はどんより曇った冷たい海風の吹く日和で、寒さに震えながら弁当を摘まんだのを覚えている。僕ら以外にも何組か花見客はいたが、いずれも花曇りの寒さに盛り上がりを欠いていた。
 そこへ、朝鮮人と覚しき一団がやって来て賑やか(にぎやか)に宴会を始めた。
 儒者姿の老人がいたし、チマチョゴリを着ている女たちもいた。老若男女、服装もまちまちだったが、なぜか子供はいなかった。
 男たちは勢い良く酒瓶をあおり、女たちはワイワイ弁当を摘まみ、聞き慣れない朝鮮語が飛び交った。
 人数でも迫力でも日本人の花見客を圧倒していた。
 酒食がひと息つくと、酔った男たちが立ち上がり太鼓や銅(ど)鑼(ら)を叩き出した。それに合わせて女たちが手を振り足を上げ舞い始めた。朝鮮の踊りは日本と違ってダイナミックである。色鮮やかな民族衣装が風をはらんでクルクル舞った。
 子供は華やかなのが好きだから、ワァーと踊りを囲んだものである。
 太鼓と銅鑼が熱を帯び、男も女も激しく踊りだした。飛び跳ねるような踊りは朝鮮の田植え踊りだろうか。帰還船が出ていたから、本国へ帰る同胞を送るものだったのかも知れない。
 踊りの佳境で突然、儒者姿の老人がフラフラと近づいてきた。曲がった腰、皺(しわ)だらけの赤ら顔、善良そうな老人は酔っ払って上機嫌である。
 僕の肩を掴むと、「おい、飲め~」と酒瓶を突きだした。
 「これ飲め!元気になるぞ~」
 充血した目、酒やけした鼻、涎(よだれ)まみれの口、ニンニク臭い息を吹きかける。どぶろくの匂いが堪らず邪険に手を払った。
 その時、誰かが鋭く言った。
 「戻れ!子供はこっちへ戻れ!」
 僕らは一斉に遠ざかったが、老人は酒瓶を振りながら叫んだ。
 「逃げるな~コッチ来い!」
 「チョーセン酒!飲むと元気出るぞ~」
 疎ましそうに見ていた花見客に大声で叫んだものである。
 「ニッポン人は元気出せ~もっと元気になれ~」
 「テンノー陛下も元気出せ~アメリカにペコペコするな~」
 「テンノー陛下万歳!テンノー陛下万歳!」
 一瞬、辺りが水を打ったように静かになったが、男たちは背中を丸めて酒を飲み続けた。
 日本人と朝鮮人の違いが分からなかったが、子供心に自分たちが揶揄(やゆ)されていることを感じた。あの時の男たちの背中を丸めて、無視すると言うか、やり過ごすというか、無力で冷たい沈黙を忘れることが出来ない。
 


 それから数年経った初夏であった。
 陽射しは真夏の激しさであったが梅雨明けしておらず、雨雲が流れては驟雨をもたらす北陸特有の蒸し暑い日が続いていた。
 そんなある日、親戚の不幸で両親が朝一番の電車で出かけ、小学六年の僕はついつい寝過ごしてしまった。目が覚めると八時を過ぎている。ヤバイ!慌てて飛び起き、食卓のケチャップご飯をかき込むと飛び出した。
 近道すれば間に合うかもしれない。
 僕は家屋の密集した陽の射さない路地裏をネズミのように走った。路地を出たとき、初夏の陽射しの眩しさに足が止まった。眼前に光りを弾いて水田が海のように広がっている。その向こうに朝鮮バラックがあり、そこから土手を駆け上がり、橋を渡ると学校である。
 呼吸を整えると、稲穂の打ち寄せるあぜ道を走り出した。若い稲穂が肌をくすぐり朝露を散らせた。あぜ道の十字路でひと息ついたとき、ウッ!野壺の強烈な腐臭、腐った魚の何とも言えない悪臭を吸い込んだ。
 再び走り出すと、震動で魚の腐臭と胃袋の朝食が攪拌(かくはん)され気分が悪くなった。それでも我慢して走り続け、バラック横から土手を駆け上がった時、突然、目の前が暗くなりフラフラと転がった。
 どれくらい気を失っていただろう。
 顔をペチャペチャ嘗める(なめる)ものがいる。生暖かい舌の感触があり、クンクン鳴き声がする。うっすら目を開けると、バラックの秋田犬であった。
 その側に眉を寄せて心配そうに覗いて(のぞいて)いる瓜実顔のお姉さんがいた。切れ長の目を細めて「大丈夫?」と声をかけてくれた。
 彼女が杏子さんである。
 激しい頭痛と吐き気を覚えたが、学校までわずかである。「大丈夫!」と身体を起こした。その時、不快な生臭い固まり、朝食のケチャップご飯がドッと噴き出てしまった。赤い吐瀉物が飛び散り、彼女は吐血かと驚いた。
 「ワア~大変!血が出てる。オモニを呼んでくる」
 モンペ姿の小母さんが飛び出してきて、背中を叩いて胃の残物を吐かせた。水を飲んで落ち着いた僕は、吐瀉物がケチャップだと言い、服を汚したことを謝った。二人は慰めてくれた。
 「血を吐いたかとビックリしたよ。服は洗うたら綺麗になるから気にせんでエエ。顔がまだ青い。ここで休んで行きなさい」
 立ち上がろうとしたが足がふらつき、やむなく僕は小母さんのバラック、屋根はトタン、壁は板切れのあばら屋で休んでから登校したのである。
 その日遅く帰宅した母に、朝の出来事を報告すると表情が曇った。
 「忙しい時に限って迷惑かけるネ」
 「娘さんの服を汚したんなら謝っておかんと、何を言うて来られるか分からん」
 明らかに朝鮮バラックの人々を警戒していた。
 翌日、早速謝りに行ったようで、学校から帰ると、
 「李さんはエエ人や。お詫びを受け取ろうとしはらへん。あそこに住むのにエライ苦労しはったようやわ」
 お詫びの代わりにキムチとモヤシを買ったと言い、僕らは初めて食味することになった。キムチは辛くて口に合わなかったが、モヤシは油で炒めるとシャキシャキして香ばしく美味しかった。それから僕らはモヤシ炒めが好物になり、しばしば李さん宅へモヤシを買いに行くようになったのである。



 僕は李さん宅へ行くのが楽しみだった。
 それはビク(英語のビックが訛ったのである)と遊べるからである。
 ビクは秋田犬の雑種で、灰色の毛にピンと張った三角耳、可愛い垂れ目にヘの字口、たくましい雄犬であった。
 若い頃はトラックに飛びかかったとか、猪をねじ伏せたとか、溺れる子供を助けたとか、武勇伝に事欠かず、大モテで子孫をいっぱい残したが、今はすっかり温和しくなっていた。
 あれほど父性の貫禄を備えた犬を見たことがない。
 ビクと呼ぶと首を少し傾ける。ジーッと相手を観察して、知った人だと尻尾を振るが、知らない人だと低く唸る。自分から決して腰を上げないが、子犬の頃に猫に引っ掻かれたとかで、猫が現れると大きな身体をコソコソ動かせた。
作品名:秋田犬ビクと杏子さん 作家名:カンノ