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私の読む「宇津保物語」第一巻 としかげの続き 2

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仲忠十八歳の時に従五位下相当の侍従に就任した。その年の五節の試みの夜后の宮を始めとして女御・更衣皆さんがお前に集まる。兼雅が差し出した五節の舞姫が他の四人より美しく、華麗に舞ったので、帝の目に留まり熱心に御覧になった。舞が終わる暁に、帝は松方、時蔭、仲頼、行正管弦の上手をお召しになり、仲忠も同じように召されて、各々が得意とする楽器の譜を声に出して歌う唱歌(しょうが)の声も仲忠が他の人よりも優れて聞こえ、それを帝がお聞き止めになって、御前に召されて、

「暁は、普通よりも楽器の音が綺麗に聞こえるものである。三代引き継がれた琴の音を、聞かせてくれ」

 と、仰せになったので、畏まって承るが、演奏をしようともしない。父親の兼雅が、

「ほれ、力を絞り出して演奏するのだ。度々お上からお前の演奏を聴かせるように言われている。それ、忝ないことではないか」

 と、しきりにせっつかれるが、仲忠は何かと躊躇して、主上から差し出された、せた風琴をやっと弾き出した。

 胡笳(こか)篳篥(ひちりき)譜に合わせて琴を演奏して珍しく又綺麗に聞こえて類のない演奏になった。

聞いているみんなは涙を流して哀調のある曲の流れに聞き入っていた。帝は、

「俊蔭朝臣が唐土(もろこし)から帰国して、嵯峨帝の御前で演奏したことをかすかに聞いて、そのようなことが現実にあるはずがないと思っていたが、お前の演奏はそれに勝っている。

 なんとしても仲忠の母の琴を聞いてみたい。嵯峨の院はあの俊蔭の演奏をよくぞ聞いておかれたことである。仲忠を院のお前に連れて行き、俊蔭の演奏と聞き比べていただこう。
 俊蔭朝臣の琴の音は本当にかすかに聞いて二度と聞くことが出来なかったことが、残念で今日までその思いを抱き続けていたが、俊蔭の音に似た音を出す者が居ると聞いて回ったが、夢の中を彷徨うようなものだった」

と、帝は切実に思っておられた。そして、

「あの山に隠れていたお前の母親を、暫く参内させて、中宮職の曹司(ぞうし)に住まいさせないか。そうすれば渡って琴の音を聞くことが出来る」

 などと言われる。兼雅大将は堅くなって承っていた。



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五節
 ここの前後に誤脱があるらしいが、兼雅の奉った五節の舞姫が評判だったことを述べているようである。当時の宮廷人が如何に年中行事に関心をもち、特に五節の舞姫に興味を懐いたかは、枕草子(九〇、九二段)、紫式部日記(大系本四七九頁)に、前者では定子皇后が、後者では道長が、意匠をこらして奉る舞姫の叙述によっても窺われる。
 五節は、毎年十一月中の丑の日、寅の日、卯の日にわたる行事で、中の丑の日に五節の帳台の試(こころみ)中の辰の日(新嘗祭の翌日)の豊明節会には舞を奏せしめるため、受領の女二人、公卿の女三人(新嘗会の時は二人)を召し(この五節舞姫を略して五節と言う)、丑の日に常寧殿で主上が(公卿同様、御直衣指貫の御装束で)御覧になる儀式である。その間、乱舞(殿上人が歌をうたいながら行う舞)があり、びんだたら(郢曲。「びんだたらあゆかせばこそあいぎやうづいたれ。やれことうとう」)、大歌(古風の歌)、小歌(当世の歌)などをうたう。寅の日には、殿上の淵酔(淵は深いの意。殿上で御酒を賜わって飲み遊ぶ無礼講の酒盛)があって、朗詠、今様をうたい、三献はてて乱舞がある。それから殿上人違は舞姫のいる常寧殿内の五節所に行き、また所々に推参の事がある。郢曲をよくする殿上人が「おしてまゐらむ」とうたう。郢曲は、催馬楽今様などを指す。郢はシナの国名。そこの声曲が艶媚だったところから、当世風の宴席にうたうのである。歌は「思ひの津に船のよれかし、星のまぎれに推して参らむ」。卯の日に、童女御覧(わらわごらん)(童女即ち舞姫介錯の女房を清涼殿に召して御覧ずる儀式)がある。主上は簾中に出御になり、童女のかざす扇を置かせて御覧の上、然るべき童女を召されるのである。五節舞姫の起源については諸説がある(公事根源新釈参照)。ここの「いだしの五節」は、兼雅の参らせた五節の舞姫二人であったろう。
(建武の頃から、舞姫は大嘗会に限り、常の年には絶えてしまった)。
  (日本古典文学大系の補注より)



こうして仲忠の侍従としての勤務は、何事にも世に優れた人物であるから、上達部達から皇子まで、彼方此方から婿に来ないか、婿に迎えよ、と言っても一向に仲忠がその気にならないので誰もが仲忠の意中を窺うことが出来ない。仲忠は秘かに、

「左大将殿のところにこそ、美しい方が秘かに大事にされている。そして、趣味のいい賢い子供達が大勢いて、彼らと接触すれ」自分も心が晴れることだろう」
 と、他に心を動かすことがなかった。

 新しい年になって、八月に、兼雅の屋敷で相撲(すまい)の節会(せちえ)などのあとで、勝ったほうの近衛の大将が自分の邸に戻って、味方の人々をもてなす還饗(かえりだち)が催された。兼雅は北の方に言われた。

「饗応のこと先ず早めに、贈り物(かづけもの)の準備に取りかかること。この度の宴会は、この堀川屋敷で初めて行うことであるから、特に贈り物(祿)には注意を払って、準備してください。

 例えば、中将から始めて、司の人、みんなに禄をお渡ししよう。今年はそのことを貴女が準備なさるとみんあが聞いて、期待されることでしょう。近衛府を始めとして四府の長官達のも考えてください。例えば、中将には女の装束、裳・唐衣・袴の礼服一揃い、とこの度は細長を添えて。少将には、白の袿一襲、と同じように礼服一揃い、と綾織りの袿二重襲を添える、袴も」

 と、北方、仲忠の母親に言うと、

「いかがいたしましょう」

 と言うが、着物の色や柄その他の用意をされた禄の品物は、とうてい今の世の中では得られないような立派な物に仕上げられた。

絵解
 絵は、兼雅夫婦のむつまじい情景と、最愛の仲忠がそこへ退出してくる楽しい家庭の様子である。


 全国に散らばる領地(庄)から、紅染めの絹。麻、葛、からむしなどの糸で織った布が送られてきた。お急ぎの物であるからと、綾織り、薄物の羅、細い絹糸で固く蜜に織った、かとりの絹などが沢山送られて来たので、御匣殿(みくしげ)縫い物をする人達が、北方の前で色々と相談をする。染め草やその他のことを。


庄から送られた物の一部は兼雅の本宅である一条殿にも渡される。兼ね家が此方に居ることは絶えて無くなったが、夫人の方々は歎かれて、色々ときついこと兼雅に言うのであるが、総ての夫人とは今や他人となってしまい夫人方の思いは届かない。

 還饗(かえりだち)は相撲の節が七月の終わりであるから、八月二日に行われる予定であり、その日が来て、二度と巡り会えないほど立派な還饗(かえりだち)を兼雅は催した。

 客を迎える正殿は寝殿で、その前の庭に白砂を一面に敷き詰め草木を植えさせ、新しい幔幕(幄あげばり)を庭の外回りに廻らし、寝殿の南廂に正客の座を設えた。