私の読む「宇津保物語」第一巻 としかげの続き 2
この殿は、檜皮葺の大きな屋敷が五棟、回廊、細殿と呼ばれる屋敷を繋ぐ廊下、屋敷廊下を繋ぐ橋、渡殿、使用人を住まわす板葺きの小屋(板屋)有るべき数は揃っていて、町と呼ばれる倉庫の群れは多かった。
このようにして、仲忠と母親がこの大きな殿に住むようになってから、兼雅は一条の女三宮の許には少しの間も居なくて、俊蔭女の他に目を向ける女は居なくなった。
兼雅は大人廿人ばかり、髪結い・下働きなどを集めて、俊蔭女のために侍らせるようにした。兼雅は夜となく昼となく、かって仲忠親子を放置したことを悔いて、この先のことを誓い、哀れなことをしたと常に考えるままに、俊蔭女を大事にしておられた。
北の方と呼ばれるようになった俊蔭女は、三十少し前の歳で、今が女の盛りの美しさである。何も考えることもなく、容貌は光り輝くように輝いていた。
子供の仲忠は言うまでもなく、この世の人とは思われないような立派で、比較する方法がない。琴の上手さは言うまでもないが、才能の方も、それ相当の師を選んで兼雅が仲忠につけて、笙(しょう)・横笛を習練させる。弦楽器である琴は、北の方が十分に仲忠に教え込んであるのだが、それ以外の楽器は何も教えられなかったので、十三弦の箏の琴、大和琴を習わせなさった。
このようなことから、北方は今は暇が無くなったのであるが、兼雅が居ない折に、仲忠に形ばかり弾き方を教えるとすぐに立派に演奏する。師から習ったことは二度と師に質問することなく習得した。笛の類には至って優れて趣のある演奏をする。昼は書籍を二三巻を読み、琴笛を五六曲吹いたり弾いたりするので、
「兼雅大将は何処でこのような少年を捜して連れてこられたのであろう、誰が管弦の上手な者に仕上げなされたのであろう」
と、騒がしく言い合う。
山中から都の京に出て三年になると、仲忠の名が有名になる。もう彼にとってこの世界で習い覚えることが無くなってしまった。兼雅にとって仲忠を大事に後見する以外にすることが無くなってしまった。
十六歳になった年の二月、元服して正式に仲忠と言う名を戴いた。上達部(公卿)の子供であるので、元服すると間もなく五位を賜って昇殿のお許しが出た。帝、東宮ともに仲忠をお召しになって、側から離されない。帝は兼雅に、
「何処にいた者をこのように品位のある優れた者として、俄に子供にしたのであるか」
と、問われるので、兼雅は、
「長年住んでいたところが分からなかったのでありますが、一昨年見付けることが出来ました。『物事が少し分かるようになってから人付き合いをさせましょう』と母親が申しまあすので、『それも真のこと』と思いまして、
家の中から外に出さずに勉学をさせました」
と、帝に申し上げる。
「誰の腹から生まれてきた子供だ」
と、さらに帝がお聞きになるので、兼雅は
「亡くなられた治部卿俊蔭の娘が母親です」
兼雅が申し上げると、帝は驚かれて、
「琴の演奏法は三代に伝わっているだろうな。その朝臣(俊蔭)は、唐土(もろこし)より帰還して、嵯峨院の御時に
『その琴の手法を教えるように』
と、仰せになられたのだが、朝臣は、
『ただいまこの場で大臣の位を戴こうとも、伝授することは出来ません』
と申し上げたきり、退出して再度昇殿をしなくて中納言に昇任のところを棒に振って市井に埋もれてしまった。
俊蔭は学問技芸に優れていた。娘が一人いた。年七歳から琴を教えると父の技術を上回る演奏をするようになったので、父親の俊蔭は、
『この娘は私の名誉を汚すようなことはない娘である。この娘から琴の手法を学ぶようにしなさい』
と言った、と聞いている。そこで俊蔭が生存中に連絡をして、探させたのであるが亡くなったと聞いた。そこで娘は隠れたのであろう。興味があることを聞いた。その琴の手法は孫である仲忠は更に秀でているであろう」
と言われる。
兼雅は探し当てたばかりであるので、仲忠が琴に優れていることを知らない、
「そういう訳のある子供でしょうが、別に変わったことがあるようには見えません。代々伝えられたことでしょうから、秘曲の一曲や二曲は演奏することは出来るでしょうが」
と、帝に申し上げる。
コメント
仲忠が都に出て父が用意した殿に入り、格子から外を見たところに、本文に「絵解」とある。「絵解」についてネットを調べると、
絵 解 き と は
「絵解き」とは絵の説明をすることで、仏教とともに中国や朝鮮半島から入ってきた伝統文化である。かつてはどこでも行われていたが、近年はほとんど見られなくなった。幸い長野市では、現在も西光寺(北石堂町)と往生寺(往生地)で、参詣者に「かるかや道心と石堂丸」の物語が絵解きされている。
とある、宇津保物語の作者はこの絵解きの方法で建物の描写をしているが、その昔、此処に挿絵でもあったのかと、想像される。絵解きの文はほぼ本文と同じであるので省略した
仲忠という名前を早くから使っているが、実際には、今回で、元服をして、仲忠と名乗るのである。子供の名前、母親の名前が判明しないままに物語を読んでいくと、煩雑になるし、原著者も早くから仲忠の名を使っているので、実際は幼名で呼ばれていたのであろうが、記載がないので仲忠を早くから使った。
幼名については、世話をする嫗が「むしみつ」と言う呼び名が一回だけ出てくる。それ以後には全くこの名前は使われていない。
母親の名前は、当時の常道で、「誰々女」だけである。名前が残らないとは気の毒である。女性の地位は、高かったのであるのに、どうしてだろう。源氏物語、更級日記など世に知られる日本女性の古典にも皇室以外、高位の貴族以外は女性の名がない。
そういう事があって、
「三条殿の女は兼雅の北方である」
と、みんなが知ることになった。それまでは、ひっそりと暮らす女を、
「どんな関係の女なのだろう。浮気で得た女を隠しているのだろう」
と、怪しい関係だと言う者もあり、
「下賤な女を妻に据えて、だらしなく女の側から離れられないで、色好みのなれの果てとはこういう者だ」
と、色々と嫉妬心もあって周りの者は噂をしていた。
件の仲忠は、帝も東宮も片時も側から離さず帰宅することも許さない。琴はこの世で一番の弾き手であるから、軽々しく演奏するようなことはしなかったが、琴以外の遊芸は、東宮の笛の師仲頼(なかより)から笛の演奏法を学び、琵琶は東宮の師の行政(ゆきまさ)から手ほどきを受けていたが、笛も琵琶も師を追い抜いて、
「どこで、誰に、教えを受けたのであろう」
と、周りの者達が驚く程、見事な演奏をするようになっていた。
仲忠の容貌は人より優れて、人との交際の仕方も非の打ち所がない。才能の素晴らしさは目で見ることが出来ないほど優れてきた。そのようなことで、仲忠は上達部やその子供達からの評判は良かった。
作品名:私の読む「宇津保物語」第一巻 としかげの続き 2 作家名:陽高慈雨