エッセイ集:コオロギの素揚げ
旅立つ母を見送った時のことであるのだが
9月1日、母は病院で息を引き取った。
10年以上をグループホームで過ごした後特養に移され、食事も出来なくなったために入院したのである。そして4カ月。
葬祭会館では、担当者の手によって納棺の準備が進められていた。
そばにいて見ていてください、と言われて兄嫁と共にその様子をおしゃべりしながら見ていた。
私がしたことは、タオルを掛けた身体に柄杓で水を足元から胸に向かってゆっくりと掛けていくことと、足先を石鹸をつけたスポンジで緩く洗ったこと(兄嫁は両手先)。後は担当者が身体を洗い、白い着物を着せ、化粧を施し洗髪したばかりの頭髪を整えた。
私は、係の人が爪を切って履かせた白足袋の片方の紐を、しっかりと、固結びにした。そして納棺。六道銭を胸に、白杖を脇に置いて。
身体はすっかり痩せ細り、顔は小さくなってはいたが皺はなく、ふくよかさを保っていた。
通夜を終えると、色紙と折り紙などが用意されていた。
いつかは訪れる行事だと早くから知っており家族葬ということもあって、皆くつろいでいる。
寄せ書きの色紙に、小学生の時の思い出をひとつ書いた。その内容から当時の話題が広がっていった。笑い話もあって、言いたい放題だ。
ひ孫に当たる子は、折り紙に遺影のままの姿を描き写していた。うまいもんで、その子の祖母に当たる私の姉が、感心しながらその絵を写真に撮っていた。
遺影は、ずっと昔に母自身が選んで兄嫁に預けていたものであり、30年前の、父がまだ生きていた頃、孫たちと旅行に行った時に写したものだという。なんと満足げな表情をしていることか。
告別式。
通夜とは参列者に若干の入れ替わりがあったが、厳かであっても和やかな雰囲気を持って始まった。
浄土真宗の経文が唱えられ始めると、目を閉じてその文言を聞いていた。意味など分からないが、そのリズムが心地よく伝わってくるのである。
するとどうだろう。母の白装束、杖をついた姿が脳裏に現れたかと思うと、次第に早くなっていくお経のリズムに乗って母の歩調は速くなり、姿は徐々に若返っていった。晴れ晴れとした、口を大きく開けて笑っている嬉しげな表情になって、軽やかなステップを踏んで、お経のリズムと合った速さで歩いて行くではないか。
やっと、厄介な肉体を含めたすべての束縛から抜け出ることが出来た、という風に。
やっと自由になれた、と言っているかのように。
それと同時に、過去の母に対する心のしこり、鬱憤がすべて解かれてしまったことを感じた。母と娘との間には、いろいろなしがらみがあるものなのである。母の表情を眺めているとすべてのことがバカバカしくなって、もうええわ、と、それらは感情的には解放され、単なる想い出へと変換していったのである。
宗教とは感じるものなのか、と無宗教・不信心の私が感じた事柄であった。
享年89歳(満88歳)。
父が亡くなった頃の年齢の母の遺影は・・・釣り合いがとれてるわ。
2015年 9月11日
作品名:エッセイ集:コオロギの素揚げ 作家名:健忘真実