エッセイ集:コオロギの素揚げ
アルプスの水
(1995年6月に書き、2010年6月21日に投稿した作品です。削除しここに収録しました)
昨年の夏は異常渇水が続き、水不足に悩まされた。
北アルプスも例外ではなかった。
積雪量が少なかったうえに日照り続きで雪の融けるのが早く、8月に入ると、山小屋では水確保に四苦八苦だったようである。
私が、つれあい・小学3年生の息子と、槍ケ岳から北穂高岳の縦走を試みたのは夏休みに入ってすぐだったので、さほど影響はなかった。とはいえ梓川の水量少なく、槍沢の小屋では、生ぬるく、ごみの混じったような飲む気にもならない水だった。
槍沢から槍ケ岳へ続く急坂を登りつめていた折の、湧き出していた水。汗をいっぱいかいて、のどは渇ききっていたので、さすがにおいしかった。その水8リットルをつれあいと分けて担いだ。
次の日は、槍の肩から北穂高岳へ稜線通しに登り降りする、何か所も難所のあるコースである。4時間ほどで北穂に着く予定で、水は2リットル入れた。岩肌むき出しで、所々でハイマツが肩よせあい、枝葉を四方へ伸ばしている。
出立して小1時間。水のさざめく音が耳に入ってきた。
はて、
と急な岩稜を降りていると、登山道から20メートルほど隔てた所に残雪が見えた。後10日で融けてしまうであろう雪渓が、さわさわと水を送り出していた。
ザックからコップを出し、それを汲み上げ口に含んだ。透きとおって冷たく、余韻がある。
後から来た2組の老夫婦らと
「これぞアルプスの水やね」
と、しばしくつろいだ。
そこから北穂山荘まで6時間かかった。
途中水場はなく、急峻なキレットを幾つか乗り越え、水筒はカラに近い。あのアルプスの水を入れておけばよかった。息子に水を勧めると、遠慮がちに飲んでいる。
やっとの思いで山荘に着くや水を買い求めた。体に染みわたるのが分かる。
あとは涸沢まで下るだけ。
だが、息子の疲れた足で3時間かかった。
テント場が近づいた所で、雪渓の下から水が勢いよく飛び出していた。これも、アルプスの水であった。
迫りくる闇の中、一気に駆け降りた。
作品名:エッセイ集:コオロギの素揚げ 作家名:健忘真実