エッセイ集:コオロギの素揚げ
紅葉した、ある中年ロッククライマーの本音
ガッ ガガッ ギッ ガリッ――頭の芯に突き刺さるようなこの音は、アイゼンを装着して岩の上を歩く時に出る音である。
関西では有名な岩登りのゲレンデのひとつ不動岩は、JR福知山線の道場駅で下車する。その周辺には他に、百丈岩、エボシ岩があるが、私がいつも通っているのが不動岩。
今年もあの不快な音、アイゼンの爪が岩をこする音を聞く時節が到来してしまった。ザックを背負い手袋をして、ザイルをうまくさばきながら岩を登攀する訓練。冬山に入るという目標がある彼らは、真剣にテクニックを研鑽し、体力を養い、一途に高みを目指して攀っていく。
その間の空いているルートを、私はザイルパートナーの確保を得て、空身の素手とクライミングシューズの足で、岩の出っ張りやへこみを利用して軽快に攀っているのである。
昨年から週末の時間を取れるようになり、今年は天気のよい週末にはほとんど、ゲレンデに通っている。
だが悲しいかな、私の最盛期はとうに過ぎ去ってしまった。それでも嬉しいことに、旧友はパートナーにしてくれているのだ。
「膝が痛いから下りが辛い」と私。
よって、攀り終えたところで懸垂下降となる。
「途中、腰が痛なったらあかんからトップは頼むわ」と私。
あるいは、
「バネ指になりやすいから、トップで攀ってる最中になったらかなんさかい」などなど。
よってトップに立つことなく、気楽に攀っている。それでも全身の筋肉を使うから、終えた時には心地良い疲労感と充実感が残る。
「昔はああやってよぅ登ってたな。アイゼンの分、足、高(たこ)あげなあかんから、もぅでけへん」
彼はもう40年以上、ずっと山を続けている。アイゼンで下り続ける時の足の角度に、筋肉が耐えられんようになったという。
「そやからもう、アイゼンはええねん」
ほんとはふたりとも、岩と雪の山に行きたいのである。
その訓練をしていた頃、アイゼンの爪が岩をこする音を不快に思うことはなかった。
山の様相も時代を映して変わる。
私が育児に専念していた頃は、3K(危険、きつい、汚い)の山の世界に新人が入ってくることなく、いつも同じ顔触れだったそうだ。
その後、中高年がブームにのって増えだし、若い人が入って来るようになったのは、ここ数年のこと。“山ガール” とマスコミで囃され、それに釣られるようにして男性が増えてきたそうな。
私が所属する山岳会は、技術は盗むか仲間で研究し、パートナーは自分で見つける。よって今、廃れてしまっている。一方、懇切丁寧な指導をしている山岳会には、多くの新人が入ってきている。女性リーダーも育っているようで、昔を思い出し、つい嬉しくなる。
彼らの講釈を耳に捉えながら、今日も私はクライミングにいそしんでいる――歳を重ねると寒さに弱くなってくるもので、もうすぐおやすみかも、たぶん。
2016年11月 3日
作品名:エッセイ集:コオロギの素揚げ 作家名:健忘真実