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エッセイ集:コオロギの素揚げ

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創作余聞 『大坂暮らし日月抄』大塩の乱――倅は流罪



 大塩平八郎の乱の後。洗心洞の熱心な門弟、弓削村庄屋で豪農の西村七右衛門(履三郎)は、姉婿で堺の医師松浦貫輔の家に逃げ込み、剃髪して俄か僧となって逃げまわった。最後は江戸で病死、浅草寺に埋葬された。死亡届を受けた役所は、遺体を掘り出し塩漬けにして、墓は破壊した。裁決では、家は闕所(財産没収)、そして磔刑とされた。
 その時倅は、常太郎六歳、謙三郎三歳。一家離散、ふたりは七右衛門の異母兄塚口源右衛門預かりとなり、教育を受けながら成長した。

 十五歳になった長男常太郎は、1846年5月、隠岐へ流罪。
 嶋後有木村の大庄屋黒坂弥左衛門に預けられ、酒造業を営む有力者岡部清助らにかわいがられて、原田村の医師で漢学者村上良順に入門した。
 1856年25歳の時、有木村に帰り医院を開業。牢死した伯父の名、松浦貫輔と名乗って、多くの者に慕われた。
 有木村の豪農の娘、お何(いか)を娶る。
 1868年の隠岐騒動においては、流民であるがため、その名は正式には記されていないが重要な役割を演じたらしい。大塩の乱関係者への尊敬の念が、反封建闘争としての隠岐騒動に立ち上がった憂国同志の人々や島民の、大きな精神的支柱にもなっていた。
 同年、赦免により帰国。西村家は、大坂市内で妹婿が継いでいたので、紆余曲折を経て元の場所を買い戻し、左殿家を興して、医業を続けた。

 二男謙三郎は、1849年5月、肥前国五嶋の福江島吉田村へ流罪となり、庄屋佐々野家預かりとなった。
 かつて京都で放蕩三昧にふけり、破戒僧として遠島の刑を受けた僧全正(50歳すぎ)は、和歌、茶の湯、囲碁、作庭に通じていたことから五嶋候に藩士として召され、余った扶持を流人に分け与え、流人の子弟に読書、手習いを教えていた。謙三郎を弟子にしたいと申し出て、学問、諸芸を教えた。
 人目に付くほどの働きぶり、上方育ちの物腰や才知、地域の若者に見られない人品が藩の役人や奥女中の評判となり、役所の書記に雇われ、扶持米が与えられた。
 母を呼び寄せ、1年ほど共に暮らしている。
 赦免で帰国したが、やりかけの仕事もあり五嶋へ戻って正式に20石で召し抱えられ、西村弥七郎と改名し武士身分となった。後に大坂蔵屋敷勤務となって、五嶋藩の物産売捌きと金方周旋を任された。
 1871年の廃藩置県により職を辞し、難波村で余生を過ごした。

 大塩の乱に加担した西村履三郎の子として島送りされたことで、いずれの地域の人々の心の中にも、幕末維新という時代の中、熱い共感として蘇らせたものであろう。
 以上は、森田康夫著『大塩平八郎の時代 洗心洞門人の軌跡』より、抜粋要約したものである。
 このふたりの生き様は、小説あるいはドラマであれば読み応え、見応えがあると思うが、すでにあるのか、ご存知であればお教え頂きたい。


                   2016年 9月 1日