エッセイ集:コオロギの素揚げ
山の精霊は在るか ――ふと感じた、弄ばれた? 出来事
4月下旬、前日から未明まで雨が降っていた日。日課となっている五月山ウォーキングに出かけた時の事である。
この頃になると、歩くコースはほぼ定まってきていた。
沢沿いのコースは、森閑とした雰囲気を最も有しており、鳥たちの活動を身近に感じることができ、登りか下りには必ず通っている。
早朝の、澄んだ空気の中で聞く鳥のさえずりと瀬音は、体内に心地よく沁み入ってくるのである。
その鳥たちを狙って、カメラをセットした三脚を据えて待機している人たちと出会うことがある。どういった鳥を撮ろうとしているのか尋ねた。見つける方法と鳥名を教えてもらい、餌をついばんでいる姿を観察することができた。
そうするうちに、私自身で鳥の姿を捉えることができるようになってきていた。
その日は、往復共に沢沿いのコースを取った。
雨をたっぷり吸い込んだ道はぬかるんでいるところがあれば、水が斜面を横切って流れているところもある。道幅は狭い。傾斜がきついところもある。
下りの、道幅が狭く、傾斜がややきついところのぬかるみで、ズルっとなって足先が方向を変え、沢に向いた。
トットコ、といったペースで歩いていたので次の足は空に乗ったはずなのだが、その刹那なのか一瞬なのか、どうなったのか記憶が定かではなく、目についた平たい石に足を乗せ、その次には流れの中に両脚を揃えて、その石の上に尻もちをついたのである。
数センチの深さだったので、沢の中に突いた片手はびしょ濡れになったが、靴下は濡れていなかった。捻挫も打ち身もなく無傷。
3メートル程の高さを登り返して道に出、何事もなかった風にして帰路を取った。
だが想像力たくましい私は、ひょっとして、肉体は頭を打って死んでいるのではないか、という気がしてならなかった。足を動かしていたことは知覚しているが地面を踏んでいた感覚はなく、どのようにして沢に達したのかが全く分からなかったからである。
そこを通るたび、どこで落ちたのか特定しようとしたのだが、ぬかるみとなりやすい傾斜面で立ち止まって沢の方を覗いても、無傷でいられそうなところがない。意識して簡単に降りられそうなところがないのだ。
最近、ココかな、と結論付けたのであるが。
崖から落ちた数日前、沢の中を覗きに下りたことがある。蛙の鳴き声が聞こえ始めてから、そろそろ10日になる頃だ。
もうオタマジャクシがいるかな、と興味を持ったからだが、沢に近い、下りやすいところを下りたのである。しかし、オタマジャクシも蛙も見つけられなかった。
崖から落ちた時の不思議な感覚。
不思議現象は、すべて心の在りようによる感覚からきていると確信しているのだが、山の精霊が、オタマジャクシにちょっかいを出そうとした下心を見抜いて、もてあそんだのではないだろうかという想像が、時々頭にちらついてきている。
2016年 5月14日
作品名:エッセイ集:コオロギの素揚げ 作家名:健忘真実