風、彼方より舞い戻る 神末家綺談8
「・・・このまま、」
逃げてしまえば、と消えそうな声が静かに降る。
「え?」
「・・・忘れるくらいなら・・・二度と、会えないほうが、ましだ・・・役目も約束も放棄すれば・・・」
弱りきった声。抱きしめる手を緩め、うなだれた伊吹の肩に手を置く。
「・・・・・・伊吹さんがそうしたいなら、わたしはそうする。協力します」
伊吹が顔を上げる。泣きはらした目を見開き、絢世を見つめている。
「――逃げますか?一緒に」
真っ黒な漆黒の瞳に、問う。揺らぐ水晶のような美しい瞳だった。戸惑ったような彼が、小さく頷くのを、絢世は見逃さなかった。
「行きましょう」
伊吹の手を引き、絢世は立ち上がる。
「駅まで歩いて、そこから始発を待って・・・お金ならわたし、少しは持ってきてますから」
「絢世さん・・・」
「お金がなかったら、歩けばいいし・・・少し寒いけど、大丈夫ですよね」
冷たい、力ない手を引く。伊吹の足が、止まる。
「二度とここへは戻れないし、わたしも京都には帰れないけど・・・」
伊吹の手をひっぱる。僅かに力がこもるのに構わず、引っ張る。
「でも、いいんですよね」
「・・・・・・」
「・・・ね?」
すべてを捨てて。
「大丈夫、心配しないで伊吹さん」
励ますように、笑ってみせる。
「きっと、楽しいですよ。伊吹さん、好きなことして生きられるじゃないですか。将来の夢は?したいことは?たくさん教えて」
ざあっと風が吹く。
「ね?」
「・・・絢世さん、震えてる・・・」
「・・・少し、寒いだけ。駅まで行けば温かいから平気ですよ」
「・・・・・・・・・いけ、ない」
伊吹の瞳に、光が戻るのが見えた。それは黒々とした夜が朝日に照らされていくように、絢世には見えた。夜が終わる。そんなこと思う。
「俺は、きみに、こんなことを、させて・・・言わせて・・・」
力のこもった手に熱がこもっていく。命が吹き込まれるようにして。
作品名:風、彼方より舞い戻る 神末家綺談8 作家名:ひなた眞白