私の読む「紫式部日記」
内裏に納めてある三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を納めた箱を捧げるのは「弁の内侍」の方で、着用の衣装は葡萄染(えびぞめ)の袿に裳、唐衣は「左衛門内侍」と同じである。少し小柄で美しい彼女が、緊張からか少し固くなって箱を捧持しているのが気の毒に思えた。手に持つ扇を始めとして前を行く内侍よりもこの人の方が趣味がいいなと思った。肩に掛けた領巾(ひれ)は薄紫と白の段染めをふわっと肩を覆っている。この二人の内侍を見ていると領巾や裙帯がひらひらと夢の中の天女を見ているように翻り、昔話の乙姫が天から降りてきた姿もこのようであったのであろうと想像された。
行幸に供奉してきた近衛府の者達が、この場に似合った服装で鳳輦の事などを取り仕切って動くのがきらきらと輝いて見えた。参議近衛権中将藤原兼隆様が御佩刀をとって「左衛門の内侍」に手渡す。
寝殿母屋、天皇御座所の御簾に仕切られた御前に控えいる上位の色を許された女房が並ぶ。方々を見渡すと、許されている青色や赤色の唐衣に、染色法の一つである平板上に張った布帛(ふはく)の上に型紙をおき、その上から染料液を含ませた刷毛で、種々の色を摺(す)り込んで模様を染め出した、地摺(じすり)りの裳をつけ、表着は一様に黒みを帯びた紫赤色「蘇芳」の織物である。ただ、「馬の中将」と呼ばれる中宮さまの女房の方だけが葡萄染の表着を纏っておられた。砧で打って艶を出した布、「打物(うちもの)」は濃いのや薄いのやそれぞれの紅葉を混ぜ合わせるようにして、打衣と単衣のあいだに着る袿は例によって表裏とも黄色で濃く薄く、表は薄紫、裏は青という紫苑色(しをんいろ)、裏を青くした「菊襲(きくかさね)」、または三重(みつかさ)ねに着たり、その人その人それぞれである。
禁止されている赤色と青色の唐衣を着用出来ない女房達のなかで、年配の人たちは、無紋の青色、もしくは蘇芳色で、袖口や裾の縁取りを綾織りで五重にしておられる。腰から後ろに長く引きずる裳の柄は大海を描いた摺りもので、水の色は明るく、腰の周りは糸を浮かさずに固く織る「固紋」で決めておられる。上衣の下に重ねて着る袿は、表は薄蘇芳、裏は青で織物はなし、それを三重五重にとそれぞれが着ている。若い人で色のお許しのない人は、表は薄蘇芳、裏は青、一般に菊の五重と呼ばれている唐衣をめいめい好みに応じて着ている。 袖口に白や青、蘇芳色、単衣を青色にしたものもいる。上を薄い蘇芳色そして下に行くに従って段々と濃い蘇芳色にしている人、その中に白を混ぜたのもある。その総てが、見た目派手にしているが、どの人も色彩豊かな人ばかりである。その上にどう表現して好いのか珍しい奇抜な模様の扇を手にしている。
普通にしている時は、綺麗な人、そうでない人の見分けがつくが、勤めを考えて一心に衣装を整え、顔に化粧を施して、誰にも負けまいと自分を整えると、風俗画を見ているようで、老いた人若い人、髪が少し薄くなった人、若くて髪が艶々している人、そのように見ていると、顔を隠した扇の上に見えるそれぞれの額から、その人が上品な人かまた少し品が落ちるのかが分かってくる。こうした時にこの人こそと思える人が、真の美しい人なのであろう。
1 宝冠(ほうかん)
2 下に垂らし再度結い上げた髪
3 領巾(ひれ)[比礼]
4 唐衣(からぎぬ)
5 表着(うわぎ)
6 打衣(うちぎ)
7 衣(きぬ)[袿(うちき)][数枚を重ねている]
8 単(ひとえ)
9 裙帯(くたい)
10 衵扇(あこめおうぎ)
11 裳(も)
12 張袴(はりはかま)
内裏に上がってから長く、天皇のお側と中宮さまの御用も兼ねてお仕えしている五人の女房が、揃って行幸に従って来邸された。左衛門の内侍・弁の内侍、左京の命婦・筑前の命婦、御賄い人である橘の三位、の五人である。お上(天皇)にお食事を差し上げるために、髪を結び揚げた姿の左京・筑前両命婦が出入り口の御座所の隅の柱から御膳を捧げて入ってこられる。これは全く美しい天女が舞い降りた光景である。左京の命婦は、青色に表は白、裏は青の袖口を見せた唐衣、筑前命婦は、表は黄色裏は青色の唐衣姿で、二人とも裳は模様を刷り込んだ摺裳(すりも)である。食事の世話をする橘の三位は青色の唐衣、綾の織り方向が違うので文様がはっきりと目だつ唐綾の黄色がかった菊の袿を表着とされている。髻(もととり)一本を結い上げている。しかし柱に隠れて全身の姿は見ることが出来ない。殿の道長様は若宮をお抱きになって上(かみ)の御前に進まれて若宮を差し出された。上は若宮を受け取りお抱きになり父子初めての対面となる、その時若宮は少しお泣きになる。そのお声は本当に可愛らしい。弁の宰相の君が上から若宮に授ける守り刀を捧げ持って来られる。ご対面が済むと、殿は再び若宮をお抱きになって御座所の西に控えている北の方倫子様の所へ向かって若宮をお渡しになる。
天皇が行事も終わって御簾の外にお出になり椅子の所にお戻りになった後で、宰相の君が私たちが控えているところに帰ってきて、
「皆さんの前で隠れるところもなくみんなに私の姿を見られ、本当に恥ずかしくどうしようかと思いました」
と顔を真っ赤にしているのを見ると、そのしぐさが可愛くまたおかしく感じられた。着ている装束も人より見栄えがする立派な物であった。
日が暮れてゆくに従って雅楽がいよいよ佳境に入った。階級の高い公卿たちが帝の御前に並ぶ。唐楽の曲名で則天武后(そくてんぶこう)の作とも伝えられて、目出度い曲として慶賀の時に奏される「万歳楽」、同じ唐楽の曲で、万歳楽が文の舞であるのに対して、これは武の舞で太平を祝う曲という「太平楽」、いずれも船の上で演奏される船楽である。船楽が終わり船が池の上を奥にはいると、階段下の楽が始まる。「賀殿」が演奏される。そうして舞い人たちがお前を下がる際に演奏される、「長慶子」が最後に演奏された。庭園の小山を巡て舞ながら音も遠くなって行くに従って笛の音も鼓の音も吹く風にうなる松風も一体となって聞こえてきて本当に美しい音楽となった。
丁度頃合いに水を張った泉水も心休まる光景になって、池の水は折からの風に小さな波を岸辺に寄せ、少々寒い時期に帝は単衣の上に衵(あこめ)二枚を着用されたままである。左京の命婦は自分が寒いので帝になにか羽織る物が要りませぬかと震えながらお尋ねになる、その姿が面白いので付近の人々はくすくす笑う。筑前の女房は、殿の妹詮子様を思いだし
「お亡くなりになった帝の生母様、女院詮子様がご健在の時は、このお屋敷に度々行幸がありました。その時にあんな事こんな事がありました」
などと思い出話がつい出てきたのに、縁起でもないお話、と相手にならないで几帳を隔てて知らん顔をしている。
「ああそうです、あの折りには」
なんて一言でも言う女房が有れば、筑前の命婦は涙を流さんばかりの様子である。めでたい席に涙は禁物。
帝の御前での催しがつぎ次と行われて面白いところへ若宮の泣き声が美しく聞こえてくる。右の大臣である藤原顕光(あきみつ)様が
「万歳楽の音が若宮のお声に綺麗に混じり合って聞こえてくる」
作品名:私の読む「紫式部日記」 作家名:陽高慈雨