私の読む「紫式部日記」
この土御門邸の北の詰所の前に多数の車が止まっているのは、この屋敷に訪問された内裏の女房達が乗ってきた牛車である。主だった訪問された女房の名前を挙げると、「藤三位(とうさんみ)」と呼ばれている古参の女房、右大臣藤原帥輔(もろすけ)の娘であり従三位典侍(ないしのすけ)繁子と言われ、先の冷泉天皇の御代から内裏勤めをされている方である。この方を筆頭に「侍従の命婦(みょうぶ)」「藤少将の命婦」「馬(むま)の命婦」「左近の命婦」「筑前の命婦」「少輔の命婦」「近江の命婦」などという名前が挙がっている。私はこの方々を詳しくは知らないしお逢いしたこともないので、覚え違い書き違いがあるかも知れない。
船遊びの人たちも慌てて中に入った。殿道長様が現れていとも穏やかな表情で、やんややんやとお声を懸けられては冗談を飛ばされた。そうして内裏から来られた女房達が身分に応じてお祝いの贈り物を賜った。
七日の夜は天皇様が主催の朝廷の若宮誕生の祝いの日であった。蔵人右近衛少将の藤原道雅が天皇様の使者となられてこの屋敷に天皇様から若宮様に贈られるお祝いの品々を書き認めた目録をお持ちになられた。この目録は柳の枝で編んだ箱である柳筥(やないばこ)に収められていた。中宮さまが目録に目を通されて「確かに」と使いの手にお返しになる。藤原氏の氏の長者の家に慶事があった時、勧学院の学生一同が整列・練歩して、慶賀のためにその邸に赴いたことを倣(なら)って学生達が整列して中宮さまの前に立ちお祝いに訪れた方々のお名前を書いた名簿をお渡しになった。それにも中宮さまは目を通されてお返しになる。勧学院の学生達にもお祝いの品が贈られた。
この夜の行事が最大のものであり、大層な騒ぎであった。
御帳台の中をそっと覗きますと、お国の母親、国母、ともてはやされたご様子でもなく、少しお疲れになられ、なんとなくお痩せになったようで、横になってお休みになっておられるお姿は弱々しく可憐に見えた。几帳の中に吊した飾りのある灯籠の明かりで影もなく明るい中で、お顔の色がとても清らかで、豊かな御髪を引き上げて結ばれたのが更にお姿全体を引き締めて美しく見せておられた。言葉に出して言うのも言葉がこれ以上なく、とても文章で続けることは出来ない。
大体の行事は前の日とほぼ同様である。上級の位の者には中宮さまが御簾の中からお祝いの品を差し出され、上達部は御簾の傍に伺候してお受け取りになる。女の衣装や若宮の産着などが授けられた。蔵人の頭を始めとして順次伺候して受け取られた。朝廷からのお祝いの品は特に大きく仕立てた、寝るとき身体をおおう夜具である衾(ふすま)、軸に巻いた絹の反物腰差(こしさし)などでいつもの通りの公式の物である。若宮さまにお乳を差し上げる「橘の三位」に授かるのは例の通りの女装束で、小袿(こうちぎ)の上に重ねる細長(ほそなが)が追加され、白銀の衣装箱に入れられ、包み紙いずれも白色である。ということを聞いたが私は見てはいない。
八日になる。各自は白一色からそれぞれの好みの色の衣装に替える。
若宮ご誕生の九日目の夜は、東宮の権大夫である頼道様の長男藤原頼通が御産養(うぶやしない)の儀式を執り行われた。白の御厨子棚一組にお祝いの品々が並び置かれている。その置き方は今風で目新しい感じがした。白銀の御衣筥(ころもばこ)、その上に海の景色である海賦図が書き込まれている。そこには海中に浮かぶ蓬莱山が描かれているのは例の通りであるが、新しい描き方でとても趣があるが、私の筆ではとても表現が出来ないのが残念である。
今宵は表の模様が朽木形の几帳が使用され、女房達の衣は濃いい赤色の物に変わり、久しく白一色に慣れた目にはとても新鮮で艶めかしく見えた。薄い唐衣を通して女房達の派手な衣装が艶々として透き通って見え、各人各様の趣向が爽やかに見えた。「こまのおもと」が男の人たちに強いられて酒を飲まされ酔態をさらした夜であった。
【若宮が生まれて三夜・五夜・七夜・九夜と行われる祝宴「産養い」の模様。七夜は特に天皇主催の祝宴であった。集まった人達の名前、船遊びをする上達部と女房達、若宮が生まれて喜ぶ光景を見事に式部は描写している。メモを取っていたのだろうか。集まった人の名前から着ている衣装の模様までを細かく書いている。藤原家の「勧学院」の生徒が並んで中宮に祝いを述べる。そんな習慣があった。 九日が過ぎると着ていた白色の衣装を脱いで普段の衣装に変わる。部屋も白一色から普通の姿に戻される。お産の一区切りがついた】
十月十余日
中宮さまは、十月十日過ぎてもお産の後の体のことを考えられてか御帳から外へお出にならなかった。白の御帳台は昨日取り除かれて中宮さまは、今は東の母家の西側に御座が設けられてそこに御帳台が拵えられている。私達はそこに中宮さまの御用がないかと夜も昼も控えていた。
殿の道長様は夜中であろうと夜明け方であろうと若君が気になるのかお出でになってそのたびに若君の姿を見ようと添い寝している乳母の胸元を押し広げようとなさる、ぐっすりと休んでいる乳母の方は、急に胸元を広げようとなさる殿の手に驚いて目を覚ます、そんな光景を私は乳母の方には気の毒に思うが、嫌らしいとは思わず殿の若君に対する愛情の深さを愛おしく思うのである。まだ一ヶ月に足りない若君に殿のお気持ちが分かろうはずがないのに殿は一人喜んで腕に抱かれて可愛がられるのも、もっとものことであって目出度い風景である。
ある時は、殿がお抱きになった直後に若君がお漏らしになり殿は着ておられた直衣の紐を解き御帳の後ろで火で焙ってお乾かしになる、
「やれやれ、若宮の小便にあうとはな、こんな嬉しいことはない。こんなにして直衣を焙って乾かしていると永年の念願が叶った思いであるよ」
と言われてにこにこと笑っておいでになる。
道長様は只今、村上天皇の七番目の皇子である具平(ともひら)親王、親王は現在二品中務卿(にほんなかつかさきょう)であられ、有名な歌人として知られている、その方の長女隆姫を、長男頼通様の奥方にと強く希望されていた。私の従兄妹の伊祐(これすけ)様のご養子になられた頼成(よりしげ)様は具平親王の子息である、また私の父為時や亡くなった夫の宣孝も具平親王家にお仕えしていた、そんな関係からか殿は私に隆姫さまのことを色々と相談される、そのことを思うと、道長様は、若宮様をお抱きになって微笑んでおられるが、内心色々と考えることが多いのではなかろうかと思うのであった。
行幸
作品名:私の読む「紫式部日記」 作家名:陽高慈雨