私の読む「紫式部日記」
中宮さまの御膳を差し上げるために髪をあげた八人の女房は、加賀の守源重文(しげふん)の娘「源式部(げんしきぶ)」さま、亡くなった備中の守橘道時の娘「小左右衛門」さま、若君にお乳を差し上げる「太左右衛門のおもと」の妹に当たる、左京大夫源明理の娘「小兵衛」さま、伊勢神宮の祭主である大中臣輔親(すけちか)の娘「大輔(たいふ)」さま、左衛門の大夫である藤原頼信の娘「大馬(おおむま)」さま、左衛門佐(すけ)高階道順(たかしなみちのぶ)の娘「小馬(こむま)」さま、蔵人藤原庶政(なかちか)の娘「小兵部」さま、木工(もく)の允(じょう)平文義(のりよし)娘「小木工」さま、以上の八人でいずれも若々しい美しい女房であった。この若い綺麗な女房達が向かい合って対座されている姿は本当に見るかいのある光景であった。常々は中宮様のお食事のお世話をする髪をあげた女房達が居られるのであるが、今日のような晴れの儀式にはそれに相応しい美しく若い女房を道長様が選ばれたのである。選ばれた若い女房達は馴れない晴れがましい場で緊張と人目に晒される恥ずかしさの苦痛に、さぞかし辛かったであろうと思った。
中宮さまが居られる御帳の東表の座敷二間に三十余人の人々が伺候して居られる光景は見事であった。飾りだてした白木の御膳に菓子や干物、餅などをけばけばしく儀式用に盛り上げた食膳を、炊事や食事を担当する位の低い女官である采女達が運んでくる。戸口の向こうにお湯殿を隔てる屏風に並べて南向きに白い御厨子を一つを持ってきて据えてある。夜が更けるにつれて月は一点の陰りもなく白く照らし、采女、水当番の水司(もひとり)下の女官、髪を整える御髪(みぐし)あげの女官、清掃・灯火・薪炭などの世話をする殿司(とのもり)女官・掃除や部屋の準備をする掃司(かむもり)女官たちが居並ぶが、私はほとんど顔も知らなかった。屋敷の鍵を管理する闈司(みかどづかさ)の女官と同等の者達なのであろう。大げさに挿した髪飾りは、茨のように沢山頭にあった。この女官達が、格式ばって、寝殿の東の廊下、渡殿の戸口までびっしりと座っているので人一人通ることが出来ない状態であった。
中宮さまの飾り立てた食事が終了して、世話をしていた女房達が中宮さまのお側を離れて御簾の処に下がって着座した。
【「蜻蛉日記」の作者の孫娘が{宰相の君}豊子、式部の同僚である。若宮のお湯を初めて勤めるのも豊子である。中宮彰子と従妹になる。この辺で日記の繋がりが判明する。道綱母は夫の兼家のことを相当痛烈に書いているが、式部達は「蜻蛉日記」を読んでいたのであろうか。
道長邸は大勢の人が集まって宴会。中宮の食事、その他の者の食事の世話をする女房と采女】
灯火にきらきらと映し出される女房達の姿の中で、「大式部のおもと」のお方の裳や唐衣(からぎぬ)その唐衣に若君誕生の行く末を言祝ぎ、
大原や小塩の山の小松原
はや小高(こだか)かれ千代の影見ん
(大原の小塩山の小松たちよ、早く大きくなれ。千年になる栄え繁った木蔭を見よう)(後撰和歌集・賀)
紀貫之の歌を刺繍に表して縫いつけている姿はとても美しく場所柄に合っていた。「大式部」は陸奥守藤原済家(なりいえ)の妻で、道長様のご命令を伝える「宣旨」の役である。隣に座って居られる大輔(たいふ)の命婦(みょうぶ)は、唐衣には手を付けず、裳に、銀の箔を細かに擂り潰して粉末にし、これを膠水で練って銀泥として、それを美しく大海を描いた模様に擦りこんで目立つようにした姿は衆人の目を集めた。「弁の内侍」の方は、裳に銀泥で白浜を描きそこに鶴が一羽立っている様子を描いている、珍しい構図であった。それに加えて裳の刺繍も松の枝を重ねて鶴と対比させた心づかいは、尋常なことでは考えられない才気があるものであった。それに反して「少将のおもと」の方のは、前のお二人に較べて少し劣る白銀の模様を、見ている女達が肩や膝をつつきあって軽蔑して眺めていた。「少将のおもと」の方は信濃の守藤原佐光の妹で、道長様の古参の女房である。この夜の中宮さまの御前の素晴らしさを誰彼に見せたくなって、屏風の影に座っている夜勤め僧侶の屏風を曳き開けて「この世でこのような目出度いことを見たことはないでしょう」
と言うと、
「ありがたや、ありがたや」
とご本尊を忘れて中宮さまの方に向かって手を摺り合わせて大感激の様子であった。
お役人の上役である上達部が、座っているところから立ち上がって渡橋の上に進んできた。道長様もその中に加わって、賽子を筒に入れて振りかき混ぜて賽子を出し、出た目を争う双六の一つ攤(た)の遊戯を始められた。しかしお偉い方々の賭け事は見苦しいものである。歌を詠われることもあった。「女房達よ杯を受けて歌の一つも詠んでくれ」
と、お言葉が何時降り掛かってくるやも知れないので、めいめいが歌を小さな声で口ずさんで考えていた。私は
めづらしき光さしそふさかづきは
もちながらこそ千代をめぐらめ
(珍しい光がこの館に指しこみ、若宮がお生まれになった。その輝かしい光が私の持つ杯にかかり、そこに写った望月の姿を私は杯を置くことなく千代に巡ることだろう)
「四条の大納言藤原公任(きんとう)様に歌を差し出す際には、歌の出来はさることながら、歌を詠む声も整えておかなければ」
と、こそこそ女房達互いに話し合っているなかにそれぞれが担当する仕事が多く、夜も更けて殿やその他の方々からの指名がなかった。
殿から本日の喜びの品が贈られた、上達部たちには女の装束に若宮のお召し物と産着が添えられていた。殿上人の四位の方は袷(あわせ)一かさねと袴、五位の人は、袿一かさね、六位の人は袴一具ということであった。
翌日、九月十六日の夜、月がとっても冴えわたって美しく輝いていた。それに季節は秋の半ば清々しくて気分も良くなる頃である、若い女房たちは池に舟を浮かべての舟遊びである。普段のお勤めの時は色とりどりの衣を着ているのであるが、今日は若宮の誕生という大事があったので白一色の衣をまとっている。衣装、髪の整え方は皆さん同じできりっとして美しく見えた。「小大輔」、「源式部」、「宮木の侍従」、「五節の弁」、「右近」、「小兵衛」、「小衛門」、「馬」「やすらひ」、「伊勢人」の女房達が端の方に座っているのを、参議左近衛中将源経房様、殿の五男左近衛権中将藤原教通(のりみち)様お二人が舟に乗ろうとお誘い出されて、参議右近衛中将藤原兼隆(かねたか)様が棹を取って舟を漕ぐ。一方、誘われて逃げ出した女房達は、部屋の中から舟遊びを眺めていた。月に照らされた庭は、白く映り舟の皆さん方は見目麗しく輝いていた。
【中宮の許に仕える女房の衣装の素晴らしさを紹介する式部の筆は、細かい模様まで書き綴っている。道長も上機嫌で女房達の中に入ってきて賽子で勝負しようという。負ければ歌を詠わなければならない、胸の内に負けたときの歌を考える。式部は扇のことを書いているが、当時、宮中や高貴の家の女房達は扇で顔を隠して、主人の前に控えていた】
作品名:私の読む「紫式部日記」 作家名:陽高慈雨