私の読む「紫式部日記」
道長様の二人の息子頼道、教通様、北の方の甥に当たる、源少将雅通様三方は、大声を上げて悪魔祓いの散米をなさって、われこそはとばかり大騒ぎをなさっている。浄土寺の明救僧都、護身法のために召されている、そのお方の頭や目に散米が当たるので扇をかざしてお避けになっている、若い人はそれを見て大笑いされる。 お湯殿の儀式で漢書の中の祝い文を読み上げる文読む博士に蔵人、右少弁藤原広業(ひろなり)様が高欄に立たれて史記の一巻を読まれる。それに和して鳴弦(めいげん)魔除けの呪に弓をはじき鳴らす魔よけの弓弦をうち鳴らされる。その数五位の人十人、六位の人十人併せて二十人が二列に並んで弦を弾かれる。
若宮のお生まれになった時間からお湯殿の儀式は一回目朝の儀式が酉の刻(午後六時)、二回目の儀式は子の刻(午後十二時)となった。そこで二回目は深夜であるので儀式は形式的に簡略に済ませたのである。しかし儀式の進行は一回目と同様に進行した。ただ、読書の博士だけが交代して従四位上伊勢の守中原致時(むねとき)が勤められたということである。読まれたのは何時もの通り「孝経」であった。そして、正五位下、筑前権守大江擧周(たかちか)が三人目で『史記』の文帝の巻を読むようで、七日の間この三人が交代で文を読む役をなさるのである。
【若宮が生まれてそれに伴う儀式が進んでいく。まず最初は「湯殿の儀」である。お湯を湯桶に注ぐにも作法が決められている。医学の発達がない頃命を落とすのは悪魔が取り憑くというのが一般的な考えで、虎の頭を湯に写すということから始まって、悪魔を払う弓弦を鳴らす。読書の儀、生まれてすぐに勉学である】
(これらの詳細はネットの「風俗博物館」を開いて御覧になって下さい。女房の衣装の感じなどを写真で綺麗に紹介しています)
全て白一色という中宮さまの御前で、お仕えする人たちの顔色や体の形が白に映え女房の容姿や肌の色あいが際だつ。そんな際だって見える一同を見渡すと美しい墨絵のように女達の髪が黒々と引き立って見え、あたかも白色の人物に黒い髪が生えたように見えた。それでなくても自分に自信がなく、御前に出るのがきまり悪く感じている私は、白黒とはっきりする姿に引け目を感じて昼間はなるべく御前に出仕しないようにしている。
落ち着いて静かに、東の対屋の局から中宮のお前に進む禁色(きんじき)を許された上級女房を見ると、白の唐衣を許され、機(はた)にかけて織った布を使った唐衣や同じような袿(うちき)を着ている姿は、とても整っていて美しく感じるが、あまりきちんとしていて、各自の個性が表れていなくて何となく見栄えがしない、白色だけということからであろうか。定められた衣を着用しなければならない女房たちも、その中で少し年配の方は、人にあれこれ言われないように、きれいな三枚重ね五枚重ねの袿を着て、その上に織物か織りのない唐衣をきちんとさりげなく着こなされ、かさね(襲)袿には、綾絹や薄く織った織物をまとっている人もいた。
扇なんかは、きらきらと派手であるが、それでも何となく風情のある物を持っていた。扇の面にはお祝いの言葉を連ねた漢詩が書かれて、それもお互いが相談しあったように見えるのであるが、それでも人それぞれの個性で書かれてあるのがおかしくて互いに顔を見合わせている。こんな事にも女房の人たちが同僚に遅れまいと競う気持ちが表れているのが私には面白く見える。裳や、唐衣に施されている刺繍はもとより袖口の金銀の縁取りをして、裳の縫い目は伏組の方法で縫い目を表に出さないようにして白銀の糸でかがってある、更に銀箔を綾紋に押しつけてある。扇などは雪山を月夜に眺めるような感じで、きらきらと輝いてはっきりとそれぞれが見分けがつき、鏡をかざしたように眩いようであった。
若宮ご誕生から三日に当たる日九月十三日、その夜に中宮識(しき)の職員が準備をして、中宮識の大夫である藤原斉信(ただのぶ)様をはじめとして一同でご誕生後三日、五日、七日、九日目の夜に行われる祝儀の第一回が行われた。右衛門(えもん)の督(かみ)である中宮大夫は中宮のお食事のことを担当される。晴の儀式に用いる調度で食器をのせる台、懸盤(かけばん)は沈香(じんこう)の香木で作られている、その上に白銀造りのお皿などを置いて差し上げられたが私は詳しく見ることが出来なかった。中宮権大夫の源俊賢(としかた)中宮権亮(ごんのすけ)、侍従の藤原実成(さねなり)お二方は、若君のお召し物、お体をお包みする布、衣類を入れる箱に敷く折立飾り、入帷子(いりかたびら)という衣類をしまう時に使う絹の布である布帛(ふはく)、衣類を包む布帛、衣類全体を覆う布帛、下机と呼ばれる衣類を置く台、いずれも白一色の物であった。しかしこれらの物は職人がそれぞれ丹誠を込めって造った物で各職人の特徴が現れていた。
近江の守である源高雅(たかまさ)は、中宮様に直接関わらないで、来客者、この館の女房たちの食事全般の担当をしていた。
東対屋の西廂の間は上級公家達の場で北側を上座にして二列に、南の廂の間は、その他の殿上人の場にして、西を上座にした。白色の綾織りの屏風を奥の母屋との境に御簾に沿って立てられた。
【お産の時白一色にするのが当時の決まりのようである。総てのものが白で覆われる、女房達も白の衣服をまとう。紫式部はその様子を細かく書いている。男の私にはどう解釈して好いのか分からない。色々と儀式や宴会が開かれる】
若宮がお生まれになって五日目の夜は九月十五日で、月は煌々と照り輝き、池の岸辺には篝火が灯され、強飯を卵形に握られた屯食(とじき・とんじき)が身分の低い一同に配られた。屋敷の外を掃除して回る身分の低い者達が聞き取れない話をしながら、我々は若君誕生に巡り会ったのだ、と得意げな顔をして歩いてる。主殿寮の役人達が自分たちが扱う松明を隙間無く掲げているので昼間のように明るい。そんな庭の岩陰や木々の根本にたむろしている上達部(かんたちめ)のお供達でさえ、めいめいが喋っていることは、この世に光の指すように若宮がお生まれになったことを、陰ながらお世継ぎがいつお生まれになるかと常々心配していたのだが、やっと実現した、と日頃の念願が叶ったような表情で顔見合わせて微笑んでいる。そのような中で、この道長様のお屋敷に働く数少ない五位の身分の人たちは、あちらこちらと腰をかがめて挨拶を交わしながら行き来して忙しそうにしている、その姿もいい折りに自分たちはこのお屋敷にお仕えすることが出来たと、これもまた得意そうであった。
中宮さまに御膳を差し上げる時になり、八人の女房が垂れ髪をさしあげて髪が垂れないように白の元結いで結んで簪を挿し、白い御盤を持って並んで中宮さまの前に伺候する。今夜中宮さまのお側で給仕される役は「宮の内侍」さまで、この方は日頃から見栄えのする容姿であるが、今宵は更にきわだってくっきりと美しく見え、白の元結で結び垂れた黒髪が常々お見受けするよりも一段と美しく感じ、掲げた扇からはずれて見える横顔など、とても気品があるように見えた。
作品名:私の読む「紫式部日記」 作家名:陽高慈雨