私の読む「紫式部日記」
北の障子と御帳台の狭いところに四十人になるほどの人が集まっていた。体一つ動かすことが出来ないほどである。その人息で逆上(のぼせ)せあがってしまい、自分が今何をしているのか意識がないような状態である。少し遅れてこの場に到着した里に下がったかっての女房達はこの場に入り込む余地が無く、長い裳や袖を丸めて手にして立ちつくしている。このような混雑した中を、老いた女房たちが中宮さまを気遣っておろおろと歩き回り泣き叫んでいた。
九月十一日
十一日の夜明けまだ暗いうちに、方角や忌み事を考えて、御産所の北の障子を二間分開けて、中宮さまは北廂の御部屋に移られる。突然周りの人が言い出したことで簾をかけて中宮さまをお隠しすることも出来ないので几帳を沢山用意して大勢でそれを掲げて中に中宮さまをお囲いして移動された。北の方(倫子)の叔父様に当たる雅慶(がきょう)僧正、興福寺の別当である定澄(ちょうしょう)僧都、北の方の異母兄の済信法務僧都の方々が中宮さまのために加持祈祷のお経を唱えられる。院源法性寺座主が、道長殿が昨夜に書き下ろした願分に有りがたい文章を加えて朗々と読み上げ始められる、その一言一言が本当に尊くまた限りなく頼もしく力強く感じた。さらに殿道長さまが院源僧都が読み上げる願分に和して念仏を唱えられるのを見たならば、この度の中宮さまのお産が無事に終わること疑いなし、と思うのであるが、それでも集まった人たちは不安に涙を流すのである。
「喜び事のお産に涙は不吉だ」
とお互いに注意し合うのであるが、人々は不安に堪えることが出来ないのであった。
四十人余りの女房達が狭いところに重なるように座っていたのでは苦しいことであろうし、また中宮さまも心苦しくお感じになると考えて南側、東表の部屋に行くように命じられ、どうしてもお側に必要な女房だけがこの二間の部屋に侍るようにと言われた。
【中宮の陣痛。加持祈祷が唯一の医療手段】
殿の北の方、生まれてくる若宮の乳母となる讃岐の宰相の君、この方は讃岐守大江清道の奥さんの豊子さまである。それに、大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の妻で殿の五男教通(のりみち)さまの乳母であった内蔵の命婦、この三人が中宮さまの几帳の中に入ってお世話をしている。そうして、大僧都清信と三井寺園城寺の永円少僧都をお呼びになった。永円少僧都は中宮さまの従兄妹であり宮中の修練道場に奉仕する僧で「内供」の僧と呼ばれていた。その中で道長様は大声を張り上げて経を唱えておられ、他の僧が唱える経はほとんど聞こえないようであった。
もう一つの間に控えておられる女房の方々は、大納言の君、小少将の君、宮の内侍と言われる橘良芸子さま、弁の内侍、この方は私はあまりよく知らない、それに、中務の君である源致時の娘、隆子さま、大輔(たいふ)の命婦である大江景理の奥さん、そして殿の意向をそれぞれに伝達する役目の大式部のおもと(御許人)、いずれも年輩の長年中宮にお仕えになった方々で、中宮のお体を気ずかって心配なさっているご様子がありありと分かるが、それに較べて私のような新参者は中宮のお産とは大変なことなのだと心に刻みつけられた。
北の廂の部屋の境に置かれた几帳の外には殿の二番目の娘妍子(けんし)さんの乳母である、藤原惟風の奥方である高子さんで「尚侍(ないしのかみ)の中務の中将」と呼ばれている、内侍は宮中の女官達の総取締役である司の長官のことである。さらに、殿の三女である威子(いし・たけこ)さまの乳母で「姫君の少納言の乳母」と呼ばれているお方。同じくまだ幼い四女の嬉子(きし・よしこ)さまの乳母で藤原泰通(やすみち)の奥方で、「いと姫君の小式部の乳母」と皆さんから呼ばれている女房。そのほか何人かの女房がどっしりとした態度で控えておられる。そのような状況であるので中宮が普段お使いになっている帳台の几帳と産室の几帳の間の通路が狭くなってしまい、人が通ることも出来ない。無理に通ろうとする人は行き交う時に体が近すぎてお互いに顔を確かめることが出来ないほどである。
殿のお子さま達。頼通(よりみち)様と教通(のりみち)様、殿の甥である藤原兼隆、この方は「宰相の中将」と呼ばれて参議近衛中将である。「四位の少将」と呼ばれている源雅道(まさみち)様この方は右近衛少将で私が親しくしている女房の「小少将の君」の兄上である。この方方も言うに及ばず、左の宰相と言われる源経房(つねふさ)様、宮の大夫である藤原斉信様、これらの方々や普段殿とはあまりつき合いのない人々も、何かの拍子に几帳の上から中をのぞき込もうとしたりなさるが、どのお方も泣きはらして目が腫れて無様な顔を気にする様子もない。その方々の頭には、邪気を払うために撒いたお米が白く雪のようにいく粒も載ったままである。また着ている衣服はどれも皺々になって見られたものではなかった。その光景は今思い出しても可笑しくて自然に笑いがこみ上げてくるのである。
お産の時が近づいた中宮さまは、無事にお産が終わるようにと、頭頂の髪を形ばかり剃刀で剃り落として、形式的ではあるが仏門にお入りになるための受戒を受けられた。このようにして更に御仏の御加護を願うのである。受戒まで受けられた中宮さまは多分難産を予想してのことであろうと人々は悲しんだのであった。ところが人々の不安を裏切るかのように、中宮さまのお産は軽くて済んだ。まだ後産が残っているにもかかわらず、広い母家の中、南の廂、母屋が見える高欄に犇めいている見舞いの客に僧侶達も、何回も大きな喜びの声をあげて額ずき、神仏に感謝を込めて祈った。
東の間で中宮さまを見守っていた女房達はこのとき殿上人の男と入り混じったようになっていて、私と仲のいい同僚女房の「小中将の君」は「頭の左中将」様と顔を見合わせ、心配事があまりにあっけなく終わって茫然としていたこと、後から同僚女房がからかって笑ったのである。「小中将の君」は何時も美しく化粧をなさっていて、とても若々しく瑞々しい方であるが、このお目出度の日も早朝に念入りに化粧なさってお勤めに上がっていたのであるが、中宮さま無事ご出産の喜びに泣き崩れた涙で折角の美しい化粧は崩れってしまい、とても見られた顔ではない。藤原道綱様の娘である女房の「宰相の君」の豊子さまは、二度と見られぬほどに顔が変わってしまわれていた。このような雰囲気の中で私の顔はどうであたろうか、と思い恥ずかしいのであるが、誰もがこのときの様子を記憶していないので本当に良かったと胸を撫で下ろした。
【女房達、兄妹達の心配を裏切るように中宮の出産は安産であった。みんなは喜んだが、後産がまだであるのに喜ぶ。ほっとした邸内の空気、褒美が出る。若宮の出産に伴う行事の準備が始まる】
作品名:私の読む「紫式部日記」 作家名:陽高慈雨