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質草女房

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「はいはい。何か嬉しそうですね」
 利兵衛の年老いた女房が言いました。
「ああ、何かが起こりそうでワクワクするんじゃ。こういう夜は熱燗に限るな」
 こうして夜も更けていきました。

 翌朝、長吉は真っ赤な目をして布団からモゾモゾと出てきました。目の下にはクマが出来ています。長吉は昨夜は一睡も出来ませんでした。
 長吉は水を飲もうとして、水瓶の中を覗き混みました。そこに写った顔は何とも情けなく、貧相な顔です。
「あーあ、俺って奴ぁ、本当にダメな奴だなぁ……」
 長吉は水瓶に写った自分の顔を眺めて呟きました。
 そして、柄杓に水を汲んで、ゴクゴクと水を飲みました。その口元から水がこぼれ、着物の襟を濡らします。
「はぁ……、取り敢えず、飯でも食うか」
 あまり食欲はありませんでしたが、昨日の晩から何も食べていません。これでは身体がまいると思って、長吉は朝食の支度をしようと思いました。
 ところが、家事の一切を女房のおかねに任せっきりだった長吉はご飯の炊き方ひとつわかりません。
「ああっ、どうすりゃいいんだよぉ!」
 長吉は小銭を探しました。ところが小銭もほとんどありません。外の飯屋で食べるわけにもいかなかったのです。
 途方に暮れた長吉はフラリと外に出ました。
 長屋の隅の井戸端では、近所のおかみさんたちが長吉の方を見て何かヒソヒソ話しています。きっと、昨日の騒ぎの噂でもしているのでしょう。
「何をジロジロ見てやがるんでぇい!」
 長吉はイライラする気持ちを押さえきれず、おかみさんたちに当たりました。そして、フラフラとあてもなく歩き始めました。
 浅草寺の境内の華やかさも、今の長吉の目には色あせて見えます。今で言うならば、ちょうど白黒の写真のような景色でしょうか。
 川魚を焼いて売っている出店のおじさんが「こいつで一杯、キューッとどうだい?」などと声を掛けましたが、長吉の耳には届きません。おじさんは「シケた野郎だ」などと文句を言いました。
 気が付くと、長吉は大川橋(今の吾妻橋)の上に立っていました。何げなく下を流れる大川(今の墨田川)を覗き込みます。
 大川の流れはとうとうと、深緑の水を湛えています。底の石も見えず、ところどころ渦を巻いて流れていました。
(いっそ、このまま大川に身を投げちまうか……)
 途方に暮れた長吉は大川の流れを見て、自殺する気になりました。
作品名:質草女房 作家名:栗原 峰幸