質草女房
こうして、おかねは亀屋を後にしました。
十軒長屋は長吉とおかねが住んでいた菩薩長屋のすぐ近くにあります。
「ごめんください」
ふすまを開けるとおりんが内職をしていました。浅草寺の境内で売る凧を作る内職です。
「はい、どちら様ですか?」
おりんの明るい声が響きました。
「亀屋の遣いの者ですけど……」
おかねがそう声を掛けると、おりんは一瞬、ハッとしたような表情となり、それから、下を向いてしまいました。
おかねはどう声を掛けていいのかわかりませんでした。長い沈黙と、張り詰めたような空気が漂います。
「申し訳ございません……。お金は返そうにもございませんので、あのー、質草はお売りになって結構です」
おりんが俯いたまま、か細い声で言いました。その肩が僅かに震えているのが、おかねにはわかりました。
おかねには本当はおりんはあの花嫁衣装を売りたくないのだと思いました。
「ねぇ、おりんさん。あんたにとって大事な物なんだろ? うちの旦那はね、あんたの着物を売りたくないんだよ。あの着物をあんたに返したいんだよ。その思いはあたしだって同じさ」
おかねはおりんに詰め寄りました。
しかし、おりんは困った顔をして横を向いてしまいました。
「あの二両でうちの人が助かったんですもの。着物など惜しくありません」
おりんがお金を借りたのには、何か理由があるようです。おかねはそれを知りたくなりました。
「どういうわけなんだい?」
「先月、うちの人が大病を患って、お医者さんに診てもらったり、お薬を買ったりするのにお金が必要だったんです。お陰様で、うちの人はすっかり治りました。だから私はうちの人さえ治って元気でいてくれればいいんです」
そう言って、おりんが涙ぐみました。
「そうかい。そうだったのかい……」
「だから、いいんです。あの着物は売り払って下さって結構です」
おりんが涙を袖で拭いながら言いました。
「でもね」
おかねが食い下がりました。清吉とおりん程、仲のよい夫婦にとって花嫁衣装は大切な思い出の品のはずです。
「でもね、おりんさん。あの花嫁衣装があったにこしたことはないじゃないか。そりゃあ今、二両と一分作るのは難しいだろうけどさ、分けて返してくれたっていいんだよ」
「でも、返しきれるかどうか……」