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ベイクド・ワールド (下)

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第十九章 ろんぐ・ぐっどばい



『視点転換 I: 渡部真琴 (Мушка) 』

 この世界は理不尽なほどに、喧しい。そして、理不尽なほどに不条理だ。良き人間は苦しみ死に絶え、悪き人間は他者を踏みつけながら生を垂れ流す。気が可笑しくなるくらいに狂った世界だ。どうして、何よりも透明で美しい彼女がこの世界から無くならなければならない。彼女のいない世界ならば、この世界の存在理由もない。世界を無くすことができないのならば、それは僕たちを無くすしかないのだ。

 その雨は街のすべてを飲み込み、僕たちの身体を激しく打った。絶え間ない痛みを僕たちに与え、狂おしいほどの生を実感させる。生を僕たちの身体に刻みつける。僕たち二人は傘も差さずに、灰色に染まったビルの屋上に立ちすくんでいる。スラックスのポケットに入ったMDプレイヤーから伸びる水色のイヤフォンは僕の左耳と彼女の右耳に繋がっている。これは唯一の現実の繋がりと言ってもいいかもしれない。世界の終りの彼女は、すべての不完全なラヴ・ソングを歌っている。僕らの身体と心は、雨の音と絶望の音楽に満たされている。雨は僕たちに生の実感を与え、音楽は僕たちに死を匂わせる。
 
 彼女の濡れた黒髪から雫が首元に滴り落ち、白いブラウスのなかに吸い込まれていく。ブラウスからは水色の下着が透けて見える。僕は彼女の手をとり、ゆっくりと歩みを進める。まるで死刑台の階段を上る囚人のように、ゆっくり、ゆっくりと。どうして、僕たちが無くならなければならない。あらためて自身に問いかけてみると、激しい怒りと虚しさを感じずにはいられない。その歪な感情は僕の手に憑依し、彼女の手を強く締め付けた。それでも彼女は一言も発さなかった。ただ、僕の手を強く握り返した。屋上の周囲には腰の高さほどの白い柵があったが、ひどく錆びついていた。一箇所だけ柵が完全に崩れて失われている場所がある。僕と彼女はそこに立ち、地面を見下ろした。激しい雨のなか、行き交う人はひとりもいない。まるで世界が終わりを迎えて、すべての人間が滅んでしまったかのように。僕は彼女の腰に手を回し、そっと彼女を引き寄せる。彼女は僕の肩に頭を乗せ、頬をすりつけた。


 これから、すべてが終わる。


 僕たちが世界を殺そうとした、その瞬間。空から雷鳴のごとく音が降り注いできた。反射的に耳を塞いだために、イヤフォンのコードが指にひっかかり耳から外れた。その反動でMDプレイヤーがスラックスから飛び出て、地面に強く打ち付けられた。プレイヤーの取出口が開き、ディスクが露出した。僕は雨に濡れるディスクを眺めながら、空から降り注がれている音楽に耳を澄ませた。僕は驚かずにはいられない。さっきまでイヤフォンのなかで流れていた世界の終りの彼女が空から聞こえてくるのだから。イヤフォンのなかにとどまっていた音楽が、凄まじい轟音を立てて空から降り注いでくる。僕は訳が分からず、ただ混乱するしかなかった。彼女も僕のシャツの袖を持ってしがみついた。

 ふいに後方から人の気配を感じる。僕は咄嗟に彼女を後ろに逃がし、手をかざした。雨に覆い隠されたその人影を見やると、そこには僕と瓜二つの男が立っていた。こちらを空虚な瞳で見つめている。瞬間、右手を前に差し出した。僕は身構える。右手に何かを掴んでいる。それはナイフのような凶器ではない。石のような何かだ。それは小さな石像のように見えた。何故、こんなものをこの男は持っている。訝しがりながら、彼女を背中に隠しながら男との距離を保っていると、ふいに男はその石像を地面に勢いよく叩きつけた。石像は地面に激しく当たると、粉々に砕け散り、それと同時に降り注いでいた雨が止まった。まさに、時間を切り取って止めてしまったかのように。それから男は止まった雨をかき分けながら、砕け散った石像の破片を勢いよく蹴り飛ばした。小石が僕たちの身体にも当たり、小さな痛みを生じさせた。瞬間、時間を奪われていた雨は、再び動き出した。ただ、地面に降り注ぐわけでなく、空へ向かって急上昇していったのだ。それは比喩でも、暗喩でも、見間違いでもない。まさに水たまりが雨となって、雨が雲に向かって降っていった。気がつけば、身体を打ち付ける雨の痛みもなくなり、空から聞こえていた音楽も鳴り止み、空には雲ひとつない美しい青だけが広がっていた。そして、目の前にいた男も姿を消していた。

 何故か、僕は涙を流していた。いや、何故か、ではない。涙はあくまで雨のなかに隠されていただけなのだ。雨は消え去り、そこには涙だけが残った。それは止まることなく、ぬぐってもぬぐっても、とめどなく流れてきた。僕は膝をつき、地面に手をついた。それでも涙はとまらない。隣にいた彼女が人差し指で僕の涙を拭きとり、それから僕を優しく抱きしめた。僕も彼女をこの場所に縛り付けるかのように、強く、強く、抱きしめた。雨のあがったこの世界は、これまで見たことがないほどに美しく見えた。いや、世界をここまで美しく見せてくれるのは、隣に彼女がいてくれるからに他ならない。そのとき、僕は思ったのだ。僕はこの世界にまだ彼女を繋ぎ留めておきたい。僕はまだ、この世界で彼女と一緒にいたいと。それが、たとえ美しい残酷だとしても。