小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ベイクド・ワールド (下)

INDEX|29ページ/36ページ|

次のページ前のページ
 

「鍵が締まっているなんて聞いてないぞ」と僕は独り言をつぶやいた。その独り言は空虚に暗闇のなかに吸い込まれていった。思えば、階段を下りている間に、言葉は一切発さなかった。孤独には本来発声は不要なものなのだ。一人でいるだけならば、言葉は心の中で閉じ込めたままでも構わない。その言葉はひたすらに自分だけに向けられ、誰のもとにも届かない。誰に届ける必要もないからだ。自己のなかで発生し、自己のなかで完結し、自己の中で堆積していく。言葉を外界に発することは、あくまでも誰かと相互理解するためのものだ。そんなどうでもいいことが頭のなかを巡って、そして通り抜けていった。僕はヒップポケットにしまっていた倉庫の鍵を取り出した。鍵穴を探し、差し込んでみる。すっぽりと鍵穴に入れることはできた。しかし、時計回りに回転させてみても、回すことができなかった。しばらく思案したあと、僕はリュックのチャックを開け、中をまさぐり、別の鍵を取り出した。徹のアパートの鍵だ。僕は再び、鍵穴に差し込む。そして、息を一度吐いてから、ゆっくりと時計回りに回してみる。そうすると、かちゃりという小気味の良い音を立てて、いともたやすく鍵が開いた。僕はノブを持ち、ゆっくりとひねり、扉を押し開いた。

 そこは間違いない。寸分たがわない。四年前のあの時の部屋だった。違うのは、クローゼットのなかにベルトにぶら下がった男はおらず、代わりに部屋の中央に質素な木製の丸椅子が置かれ、そこに黒い袋を被った男が座っていたことだ。黒い心臓の男だ。男の呼吸に合わせて、黒い袋は膨らみ、そして萎む。そこに生があることを確かめるように。僕は黙って、その男のところへと歩みを進める。部屋の天井には豆電球がついていて、明滅を繰り返しながら頼りなさそうな光を提供していた。この光が鍵穴から漏れていたのだろう。僕をここに導くためには十分な光だった。僕はおそるおそる男の顔を包みこむ黒い心臓に手を伸ばす。手が触れた瞬間、男の呼吸が一瞬止まったが、すぐに変わらずに拍動を再開した。一定のリズムで、とくん、とくん、と。黒い袋は男の首元まで覆っていて、首元は細い麻紐のようなもので締められていた。僕はその紐をほどき、床に投げ捨てた。そして、黒い袋の左右を両手で掴み、一気に剥がし取った。
 そこには、とても懐かしい顔があった。僕の記憶から消し去ろうと何度も何度も望んだが、決して消し去ることができなかった顔だ。僕の思想に多大な影響を与えた者の顔だ。僕とは違って、整った端正な顔立ちをしている、美しいほどに。
「……徹」と僕は声をかけた。しかし、反応は一切なかった。小さな呼吸音が聞こえるだけだ。もう黒い心臓は拍動をしない。

「もう一度会えるとは思わなかった。僕はずっと兄さんから逃げ続けてきたんだ。会おうと思えば、いつでも会えたのに。あの時、森から帰ってきた兄さんを避けることしかできなかった。あの時、僕が兄さんのことをもっと見ようとしていれば……。僕はお兄さんにもっと話すべきだった。僕が何を考え、何を思っていたのか。そうすれば、黒い心臓の男も大きくなることはなかったのかもしれない。僕のあげたベルトがクローゼットに取り付けられることもなかったのかもしれない。ただ、ひとつ言えることは……僕は後悔していないってことだ。少なくとも、あの時の僕は、あれしかできなかった。僕自身があの選択をしたんだ。それは変えられない事実だ。だから、必要なのは今何をすべきかだ。兄さんと約束したように、僕は玲をマトリョーシカの殻から出してあげることができた。それは、きっと兄さんの考えていたやり方とは違うだろう。僕自身がいいと思ったやり方で、彼女を助けることができたと思うんだ。それが正しい方法だったのかは分からない。だけど……」
 天井の豆電球は明滅を繰り返す。僕はあることに気がつく。光があれば、必ず対となる影が生じる。だが、徹にはそこにあるはずの影がなかった。
「……僕は気づいていたんだ」と僕は言った。「沙希のこと。彼女はきっと……玲なんだろ? 徹の物語のなかで生まれ、僕と出会い、そして玲に繋いでくれた大切な存在。沙希の冬の寒空のような瞳の意味が分かったよ。あの瞳が失われたとき、玲はこちらの世界に戻ってきてくれた。まったく、かなわないね。兄さんは常に僕たちの先を歩いている。僕と玲はいつだって兄さんの足跡を、確かめながら歩いていくことしかできなかった。兄さんがいないと前に進むことができなかった。……だけど、もう大丈夫だ。僕たちはもう大丈夫なんだ。だから、眠って欲しい。このまま拍動を繰り返すだけの生ではなく、本当の死と生を兄さんにはあげたいんだ。それは、誰でもなく僕がやらなくちゃならない」

 僕は小ぶりなナイフを右手に具象化させる。想像力から生まれた想像上の刃物だ。刃先を徹の頭部に這わせる。おだやかに眠りについている、端正な顔立ちを僕はもう一度見つめる。
「おい、お前。何をする気だ」振り返るとカサイが壁際に立っていた。「お前、自分の兄を殺す気か。信じられねえな。せっかくの兄弟の再会だろ」
「カサイ。慌てるなよ。君がまだ街に組み込まれていないのは分かっているんだ。まだ、徹と繋がっているんだろう」
「馬鹿言うな。俺はもうこの街そのものだ。この街を回しているのは俺だ」
「そうなら、徹にもう執着する必要はないはずだ。僕はこの徹の形をした拍動を繰り返すだけの存在に眠りについてもらう。彼の頭の中にある精神と物質が互いに作用しあう場所を壊す」
「やめろ。お前とそいつはもっと分かりあうべきだ。話し合うべきなんだ。この場所で共にいるべきだ。それが一番良いことのはずだ」
「僕と徹を理解しているような口を聞くな。お前にはきっと僕たちの関係は想像できない」
「俺はな、徹に生み出された窮屈な存在だ。想像力の乏しい人間の想像力によって生みだされた。望んでもいないのに、糞つまらねえ倉庫の管理人をやらされた。俺たち、物語の登場人物は実に不完全な存在だ。俺達は多くの欠陥を抱えたまま産み落とされる。お前には理解できないだろう。この辛さはお前には分からないだろう」
「カサイ……。理解できるさ。分かっているんだろ。僕はお前だろ。そしてお前は僕なんだ。徹から与えられた役割を忠実に遂行してきた、そう思っていた存在だ。この縛りを自分の意志で終わらせるために、僕を徹の元に導いてきたのは君だろう。徹の物語を終らせて、僕たちの物語を始めようと言ってきたのは君じゃないか」
「なんだと……。何を言ってやがる。俺はただ自分だけが自由になりたいだけだ」
「それで構わない。だからこそ、徹を終らせてあげよう」
「ああ、くそ」とカサイは舌打ちをうった。「俺は知らない間に二つに別れちまった。どっちが本当の俺なのかも、もはや分からない。何が正しいのかも、もう分からなくなっちまった。徹を残したいとも思うし、消してやりたいとも思う。俺は徹を消して、本当に自由になっていいのか」
「ああ、構わないさ。これは“俺”の意思で、“俺”が決めたことだから」と僕は言った。