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ベイクド・ワールド (下)

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「君は気にすることはないよ。君のせいでは、決してない」河中さんはそう言うと、僕の肩に手を載せた。
「そう。亜季のせいじゃない。私のシンセカイもこの世界に大きな影響を与えた。私の不完全な想像力が、あなたをこの物語に引きずり込んだのかもしれない。だから、一緒に元あった日常に戻る方法を見つけましょう」
「ただ……」と僕は言った。「シンセカイの物語の前に兄の物語があったんだ。この物語の序章は僕たち兄弟からはじまったんだ」
「だったら」と沙希は言って、僕を抱きしめた。ふいに、良い香りが鼻をかすめた。何の匂いだろう。とても懐かしい匂いだ。おそらく、沈丁花の香りだ。とても落ち着く香りだった。「だったら、私もその責任の一片を一緒に背負わせて。亜季だけが、それを抱えるのを見るのは耐えられない。私自身がそうしたいの」
 僕は沙希を強く抱きしめ返したい気持ちにかられた。けれども、なんとか思いとどまった。僕は沙希の艶やかな黒髪をなでてから、ゆっくりと手を外した。温かい手だった。「沙希、ありがとう。僕は君と一緒にいれたことが嬉しかった。アルビナとしての役割を二人で解決していったことも、大変だったけれど、君と一緒にいれたことが、ただただ嬉しかったんだ」沙希の瞳が濡れているのに気がついた。冬の寒空はもはやそこにはない。「でも、これは僕が徹と立ち向かわなければならない、決意の物語なんだ。これまで、僕は彼からずっと逃げ続けてきた。彼からの手紙を読まずに捨てたこと、藤峰さんから手紙を再び渡されても、読むことができなかった。昨日の夜だって、決心して読むまでにすごく時間がかかったんだ。もし、僕がもっと早く手紙を読むことができていれば、真琴は死なずに済んだかもしれない」
「自分を責めすぎない方がいい」と河中さんは言った。
「……はい。ただ、責任を取るというわけじゃなくて、うまく言えないけれど、僕は僕自身を確かめたいんです。兄に対する思い、それから僕がこれまでにやってきたこと、それが果たして本当に正しかったのかどうか」僕の頭の中には玲の姿が浮かんだ。「だから、どうか、僕のことを信じて欲しい。この倉庫の先には、僕一人で行かせてほしい。僕のためにも」
 沙希の瞳にたまった涙は堰を切ったように、とめどなくあふれた。僕はそれを人差し指でぬぐいとってあげる。
「亜季。抱きしめ返してよ」沙希はそう言って、もう一度僕に抱きついてきた。沈丁花の香りが再び宙に舞った。何故だろう、すごく懐かしいような気分になる。不思議だ。沙希の腕に力がこもる。僕は沙希の背中にゆっくりと腕を回して、抱きしめ返した。沙希は顔を僕の胸へと押し付けた。沙希の瞳からあふれ出た雫は、僕のシャツに深く沁み込んでいく。いったいどれだけの時間、そのままでいたのか分からない。時間の感覚がすっぽりと抜け落ちてしまったようだ。沙希はゆっくりと腕をほどき、僕から離れた。けれども、沈丁花の香りは僕の周りに残った。
「沙希、とてもいい香りがするね」と僕は言った。
「香水。沈丁花の香りよ」
「とても、好きな香りだ。何故だか、その香りはすごく落ち着くんだ」
「よかった」沙希はそこで何かを思いついたかのような顔をした。「沈丁花の花言葉は“不滅”よ。だから、亜季、絶対に」そう言って、もう一度僕に抱きついた。それは、今後、僕の記憶から決して失われることのないだろう香りだった。
 僕は沙希とゲバルトに最後の別れを告げると、倉庫のなかに踏みいれる決意をした。真琴から渡された鍵を倉庫の鍵穴に差し込み、鍵を回すと、かちりという小気味よい音がした。扉のノブに手をかける。ノブはひどく冷えていた。冷たい感触が手のひらに広がってくる。僕はゆっくりと扉を押し開き、その先へと進んでいった。決して振り返ることはせずに。

 そこには倉庫はなかった。扉の奥はただひたすら下へと続く歪な形をした石造りの階段が見えるだけだった。階段の奥は真っ暗で、まるで永遠に続いているように見えた。絶望的な夜のような暗闇。一段目の階段を下りたとき、後ろ手に持っていたノブを離してしまう。扉は閉じられ、差し込んでいたささやかな光も完全に失われた。すべてが真っ黒になる。完全なる黒。それが僕の身体を覆い包む。音も何も聞こえない。僕は閉じられた扉によりかかり、目を瞑った。暗闇に目を慣らすために、そのまましばらくじっとした。けれども、いくらたっても目の前は黒のみしかない。それはきわめて均一な黒。すべてがまったく同じ種類の黒にしか見えない。まるで、目を失ってしまったかのようだ。目だけではない、身体そのものがそこにあるのかさえ、確信がもてない。僕は手で顔に触れる。そこには目があり、鼻があり、耳がある。そして口がある。触れていないと、本当に存在しているのか自信が持てない。僕は頬をつねる。そこに痛みが生じる。その痛みのなかに、僕は実在を感じることができる。
 僕は壁に手を這わせ、足を踏み外さないように歪な階段を下りて行く。でこぼことした奇妙な形をした階段だ。ふいに、足がつるりと滑る。僕はしゃがみこんで態勢を整える。地面に手を触れると、何かぬめぬめとした感触が伝ってくる。それが何なのか僕には分からない。僕はふいに流れ込んできた想像力に囚われる。まるでこのぬめぬめは蚓它のうすい表皮から噴出した白い液体のようだ。蚓它のおぞましいくらいに邪悪な深淵が頭に浮かんでは、消える。口端から飛沫をあげた粘液がぼたぼたと垂れる。そして、それは不気味な声で呻く。不気味な動きで暗闇のなかを蠢き、血肉を求めてただひたすらと前へと進む。恐怖のなかで、想像力は無限大に増幅していく。僕はその不気味な想像を頭から振り払い、ゆっくりと階段を下りて行った。

 ようやく階段を下り切った。どれだけの距離だったのだろうか。どれだけの時間がたったのだろう。暗闇のなかではさまざまな感覚が奪われてしまうようだった。身体を大きく動かしたわけでもないのに、全力疾走をした後かのように僕の息は切れていた。壁にもたれ掛かり、しゃがみこむ。ひんやりとした岩場の感触を背中に感じる。手で触れると、ところどころ苔のような植物が岩肌に生えているのが分かった。息を整えたあとに、再び僕が視界を前に向けると、かすかな光が見えることに気づく。僕はそのかすかな光に向かってゆっくりと歩を進める。それはまるで僕を導いているかのように思えたし、僕を迷いこませようとしているかのようにも思えた。ただ、僕が進むためにはその何を意味するのかも分からないシンボルを信じるしかなかった。ようやく、その光のもとにたどり着くと、そこには木製の扉があった。光はその扉の鍵穴から漏れていたものだった。僕はノブを手探りで探し、掴む。回してみるが鍵がかかっているようでびくともしなかった。