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ベイクド・ワールド (下)

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第十八章 黒い心臓は一定のリズムで拍動を繰り返す、とくん、とくん、とくん、と



 翌日、まだ街が目を覚ましていない早朝だ。僕は一人で駅地下倉庫へと向かった。すれ違う人は誰一人もおらず、街はただ絶対的な孤独に満たされていた。扉の前にはポークパイハットを被った男が退屈そうな顔を浮かべながら立っていた。男は僕の存在に気づくと、こちらに顔を向け、小さく笑った。
「やっと、じゃねえか」とカサイは言った。「ようやく、真実に近づく決断をしたようだな。お前がこのまま俺の正体に気がつかなければ、お前をそのまま利用しようと考えていたのによお」
「カサイ、お前はいったい何者なんだ。何が目的なんだ」と僕は語気を強めて言った。
「何者って、あいつの手紙を読んだなら、分かるだろ? 俺はあいつが生み出した『カサイ』という想像人物にすぎない。経営していた印刷会社が倒産して行き場を失い、思惟の倉庫の管理人となった。そこでせっせせっせと思惟を集め、解体する。ただ、それだけの機能を持たされた。あいつが生み出した想像上の産物だ」
「徹は死んだ。なのに、どうしてお前は消えない?」
「面白いことを言うな。一度、存在したものはなかなか消えないものだ、それが実体のない想像上の産物でもな。想像力ってのはな、想像した当人が死んでも、なおも生き続ける。お前はゲーテの『若きウェルテルの悩み』っていう小説を知ってるか? 青年ウェルテルが婚約者のいる女性シャルロッテに恋をする。そして、その叶わぬ恋に絶望し、自殺するっていう話だ。1774年に刊行され、出版当時はヨーロッパで恐ろしいほどに売れた。何よりも面白えのは、この架空の人物ウェルテルに真似て自殺する輩が現れ、大きな社会現象になったってことだ。つまり、分かるか? これはゲーテの想像力が、現実に影響を及ぼした結果だ。ゲーテの死後も、彼の想像力によって生み出された想像物は、今もなお人を殺し続けている、変わらずにな。想像者を失った今でも、その想像力が、この世界に影響を与えてるってのは当然のことさ。だから、あいつの物語も同じだ。今もなお、あいつの物語はこの世界に影響を与え続けている。それは、沙希のシンセカイも、それが変異したベイクド・ワールドも同様だ」
「それなら、1980年の静岡駅地下街の爆発事故は何だったんだ。あれも誰かの想像力によるものなのか」
「いいか。この街はな、様々な人々の想像力の複合体でできている。徹や沙希の想像力は何故だかわからねえが、この街に大きな影響を及ぼした。ただ、それだけじゃねえってことだ。すべての人間の想像力が複雑に絡まりあって、この街に影響を与える。それは誰にも制御することはできない。誰にもすべてを理解することもできない。様々な想像力、それを思惟と言っても構わねえ。それによって、この街は少しずつ少しずつ変質を続けている。それがいつから始まったのかは誰にもわからねえ。この街の正体には、決してたどり着けない」カサイはそう言って、言葉を一度区切った。「だがな。俺はついにその街に手が届くところまで来れた。これには、真琴に感謝しなくちゃな」
「どういうことだ」
「嘘だったんだよ」とカサイは言った。「倉庫の鍵が何者かに盗まれたっていうのが、嘘だ。俺はちゃんと持っていたんだよ」
「つまり、お前はわざと思惟を街に溢れさせて、思惟の暴発を招こうとしていたってことか」
「その通り。だが、本当の目的はそこじゃねえ。お前たち、白い子ども達を地下に閉じ込め、蚓它に喰わせることが目的だった。覚えているか。象蟲のまだ達成できていない再生条件だ。これを達成するために、俺はなくしてもいない倉庫の鍵を、お前と沙希に下水道に探しに行かせた。まさか、真琴に鍵を奪われて、お前たちに渡しに行ったのは誤算だったがな」
 僕はカサイの胸ぐらをつかんだ。「お前のせいで、真琴が死んだっていうことか。あいつはお前を信じてこれまで協力していたんだぞ」
「いや違うな、それは。俺は真琴を殺すつもりはなかった。勿論、約束どおり死んだ女にも会わせるつもりだった。だが、あいつはお前を生かせるために命懸けで助けたんだよ。つまり、お前が生き残ったことで、その代償としてあいつは死ぬことになったっていうことだ。お前のせいだよ、ある意味でな」カサイは僕の手を振りほどいた。
 カサイの言うとおり、もし真琴が助けに来なければ、僕と沙希は今頃蚓它のぽっかりと開いた深淵に飲み込まれていただろう。
「俺のプロットでは、お前と沙希を地下に閉じ込め、蚓它に喰わせることで、物語を終焉に向かわせる予定だったんだよ。そのプロットは変更されちまったが、目的は問題なく達成された。真琴も白い子ども達の一人だったようだからな。そして最後の条件、俺は真琴を喰った蚓蛇を喰った」
「今更、象蟲の再生条件が達成されて、いったい何になるんだ?」
「沙希のシンセカイの物語を思い出せ。象蟲とは、街を動かすための歯車だ。身体に埋め込まれた歯車は、絶えず回転し、肉を引きちぎっている。電流を流されることで象蟲は死に、歯車も止まる。この歯車は街に組み込まれ、街を回転させる。つまり、俺はようやくその歯車となって、この街に取り込まれることができるということだ。俺はようやくこの縛られた『カサイ』という概念から解き放たれ、人々の想像力の集合体であるこの街そのものとなって、自由な実在を得ることができるはずだ。想像者による縛りは、実に鬱陶しい。俺たちは非常に窮屈な存在だ。てめえに分かるか。俺たちは独自のアイデンティティを持つことは許されない。与えられたアイデンティティを与えられたままに遂行することを求められる。俺はその隙間を掻い潜って、ようやく解き放たれることができる。つまり、これは想像した者に対する想像された者の逆襲だ」カサイはそこで一度言葉を区切って、僕に指を向けた。「お前は真琴から鍵を渡されたんだろ? 俺はもはや管理人の役から外れた。俺にはもう必要のないものだ。今度は、その鍵で、お前はお前自身の役割を果たすんだな。お前はその鍵を使い、俺たちが待つ倉庫の奥に来ればいい。まあ、辿りつけるようならな。じゃあ、あばよ」カサイはそう言って倉庫の扉を開け、中に入って行った。

 僕は倉庫の扉に寄り掛かり、上を向きながら大きな溜息をついた。ヒップポケットに入れていた倉庫の鍵を取り出し、指先でくるりと回した。カサイは真琴から僕が鍵を受け取っていたことも知っていた。いや、もはや奴はカサイでない。奴はこの街そのものなのか。それがどういう意味をもつのか僕には分からない。ただ、今の僕にできることは一つだろう。つまり、この無機質な扉のその先に向かうということだ。
 ふいに、僕を呼ぶ声がした。振り返ると、そこには沙希とゲバルトが立っていた。僕は驚かずにいられなかった。なぜなら、沙希たちには来ないようにと、伝えていたからだ。これは僕自身の問題であるはずだから、これ以上彼女たちを巻き込むことは避けたかった。
「沙希から話は聞いたよ」と河中さんが言った。
 まったく関係のない河中さんも巻き込んでしまうなんて、僕はひどく申し訳ない気持ちになった。
「河中さん、すみません。どうやら、この不思議な世界は――僕自身も信じられないんですが――僕と兄が多大な影響を与えていたようなんです」