小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ベイクド・ワールド (下)

INDEX|25ページ/36ページ|

次のページ前のページ
 

「いいかい、君が先に上るんだ。後を僕がついていく。時間はない、急ぐんだ」沙希は身体を震わせながら頷いて、梯子に手をかけた。その手も小刻みに震えていた。そして、上り始めた。不吉な方向に目をやるが、まだ大丈夫だ。急いで上れば、きっと間に合うだろう。いや、そう信じるしかない。僕は沙希に続いて上り始める。沙希はペースを崩さずに着実に進んでいく。僕は大丈夫、大丈夫と沙希に声をかける。その調子で進むんだ、と。その瞬間、耳をつんざくような音が下方から聞こえる。奴の咆哮だ。それはどの動物の声とも言い表すことができない。不吉を象徴する絶望的な音。下方を見ると、奴の口が梯子の先端に触れていた。白くねばねばとした粘液が梯子にかかると、白い煙があがった。奴は再び大量の粘液を噴出させた。そして、ぐいぐいと身体をねじり込ませ、こちらに向けて口を向けた。そしてゆっくりと這い上がりはじめた。這い上がるたびに、梯子に振動を感じた。僕は沙希が身体のバランスを崩さないように、手でしっかりと沙希の身体を支えた。

「亜季……。大変なことになっている」と沙希が言った。「マンホールが……」
 僕は上方に目を向ける。そこに開いているはずのマンホールが閉じられていた。ここに下りる時、マンホールは壁際にどけておいたはずだ。何故だ。入り口はこの場所で間違いないはずなのに。
「沙希、そのマンホールを押してみてくれるか? 開くか確かめてくれ」
「分かったわ」沙希はそう言ってから、片手を伸ばして、マンホールを力強く、押した。しかし、びくともしなかった。「まったくダメ。私の力では動かせないわ」
 その間にも奴は上方への進行を進めてくる。梯子には絶えず、不吉な振動を感じることができた。
「僕が代わる。身体を左側に避けて」
「わかったわ」沙希は両手で梯子の左端をつかむようにして身体を反らした。僕は右端をつかんで上方に上がり、身体が安定するように位置取りをした。
「奴が来るわ、這い上がってきている。急いで」
 僕はマンホールに手を伸ばして、力を入れて押してみる。駄目だ、動かない。もう一度、よい位置取りをして、足をがっちりと固めてから両手で思いっきり押してみた。瞬間、がたっと音がして、マンホールが動いたが、何かにひっかかるような感触があって、それ以上動かなかった。何度か押すが、そのひっかかりが取れるような気配がなかった。
「もうそこまで来てるわ。羽虫を飛ばしている」
 一体どうすればいい。僕たちも真琴と同じように、あの深淵のなかに吸い込まれるしかないのか。僕はもう一度、渾身の力を振り絞って、マンホールを下から押してみる。しかし、必ず途中のひっかかりで止まってしまう。僕は錯乱したかのように、マンホールを叩いたり、殴ったりした。手の甲から血が滲むのを感じた。まるで骨が砕けたかのような強烈な痛みを感じたが、僕は絶えず叩き、押し続けた。羽虫は僕の視界を遮るかのように邪魔をした。
「もう駄目。奴はもうすぐよ。亜季」沙希はそう言って、僕の身体に強く抱きついた。僕は下方に目をやる。すぐそこに絶望的な深淵が口を開けていた。開かれた口に生えた歯には、赤黒い肉塊と血がこびりついていた。それが誰のものなのか僕は想像したくもない。その圧倒的な暴力的な光景に、僕は強い怒りを覚えた。湧き上がる怒りに僕は我を忘れ、気付けば右手に真琴の持っていた軍刀を具象化させていた。僕は衝動的に決意した。ここから奴に飛び降かかり、一か八かで奴の喉元を引き裂くことを。そうすれば、少しでも沙希が深淵に吸い込まれるまでの時間を延ばすことができるかもしれない。そう、僕は思ったのだ。きっと僕はここで死ぬだろう。しかし、不思議と恐怖は感じなかった。そこにあるのは、怒りだけだった。僕は目をつむり、一呼吸してから覚悟を決めた。
 奴の深淵めがけて、飛び掛かろうとした、その瞬間である。がたっという音がして、マンホールの蓋が開いた。蛍光灯の明かりが目に飛び込み、あまりの眩しさに目がくらんだ。そこから、人の手が差し伸べられた。誰かは分からないが、僕は沙希の身体を支えて、先に行くように促した。沙希は震えながら、何者かの手に、手を差し出し、勢いよく引き上げられた。僕もその後を続くように梯子を駆け上った。圧倒的な光のなかで、僕の視界は完全に失われていた。光のある方向にひたすらに進んだ。梯子を上りきり、マンホールから出ると身体を横に転倒させた。その瞬間、その何者かがマンホールの蓋を閉めた。
「もう、大丈夫だよ」何者かは声をかけた。男の声だ。その声に僕は聞き覚えがあった。
 僕は壁によりかかり、その男の姿を見つめた。ぼやけた視界のなか、すこしずつ光に慣れるのを待つ。視界が回復するのには多少時間がかかった。そして、僕はその男が何者なのかようやく理解する。
「どうして?」と僕は声をあげた。「どうして藤峰さんがここに?」
「やあ」と藤峰は言った。「君たちが下水道に向かったということを聞きつけたんだ。間に合ってよかった」
 僕は混乱せずにはいられなかった。
「混乱するのも無理はないだろう。ただひとつ言えることは、僕もいわば君たちがいるこの不思議な物語の登場人物だ。しかし、彼女の物語でもなく、ベイクド・ワールドの物語でもなく、それよりも一つ前の物語だがね」そこで藤峰は一呼吸を置いた。「僕の親友、そして君の兄でもある徹の物語だ。僕たちは彼のことをデジクと呼んでいたが」
「どういうことですか? 兄がどう関係しているんですか?」
「その様子だと君はまだ徹の手紙を読んでいないようだね。残念だ」藤峰はため息をついた。「真琴君はこの街の一片の真実にたどり着いたというのに……。彼がここにいないということは、やはりさきほどの化け物に……」
「何故、藤峰さんがムシカ、いや真琴のことを知っているんですか?」僕はさらに混乱した。
「さっきも言っただろう。僕は徹の物語の登場人物であると。君たちの物語よりも前の物語の登場人物だよ。僕はこの世界の秘密について少しは理解できているつもりだ。果たして、その理解がどこまで真実に近いのかは判断できないけれどね。ただ僕は、この物語、この世界を認知している人間を知ることのできる方法をいくつか知り得ているんだ。その方法で、真琴も物語の登場人物であることを知った。そして、彼に声をかけた。ただ、それはつい先ほどだった。それを伝えたことで、彼はこの街、この物語の一片の真実を知ることができたのだろう。そして、君を助けることを決意した。それはきっと、文字どおり決死の覚悟でね」
「僕には何が何なのか分からない。いったい僕はどうすればいいと言うんですか」