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ベイクド・ワールド (下)

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 ふいに人影が僕らの目の前に現れた。その人影が動いたのが見えたかと思うと、ねばねばとした白い粘液に覆われた蚓它の皮膚は切り裂かれ、赤黒い鮮血が噴き出し、飛び散った。壁に斑点模様を作った。蚓它はくぐもった呻き声をあげた。言い表せない不気味な声が辺りに反響し、地面を大きく揺らした。ふいに蚓它は口を大きく開いた。粘液が纏わりついた口を開くと、そこにはまるで光の届かない深い海のような絶望的な深淵が広がっていた。蚓它の口の奥は、まるで死という概念のメタファーのようだ。ふいに、身体を震わせ、空気を吸い上げる。下水道の淀んだ腐った空気をまるごと吸い込み、身体は風船のようにぱんぱんに膨れた。それから、死のメタファーは死に絶えた空気を再び吐き出す。へたり込んでいた僕の身体はすさまじい風圧を受ける。僕は人影に目をやる。その人影には見覚えがあった。右手に軍刀を具象化させて、蚓它に刃先を向けて威嚇していた。ムシカだ。
「アルビナ、沙希。逃げろ」とムシカは言った。蚓它に目を向けると、口の奥から何か黒いもやのようなものが見えた。目を凝らすと、それは無数の羽虫だった。不気味な羽音を立てながら、ぽっかりと開いた深淵からとめどなくあふれ出てくる。それらは正面にいたムシカの身体を包み込み、すっぽりと飲み込んだ。ムシカは軍刀で振り払いながら、数歩後退した。軍刀にあたった羽虫は、地面へと舞い落ち、本当の死を迎えた。
「今は話す余裕がない。とにかく逃げろ。お前たちは生きなければならない」とムシカは叫んで、駆け出した。
 僕と沙希は目を見合わせてから、声を掛け合うこともなく、駆け出した。地面を強く蹴り、駆ける。後方からはムシカの足音もついてくる。どうしてムシカがここにと思ったが、それを考える余裕はなかった。蚓它は僕らの後を追うように、凄まじい水飛沫の音を立てながら這いずり、追ってきた。僕と沙希は鉄格子を潜り抜け、先に進む。ムシカもそこをくぐり抜ける。後方を見やると、蚓它は鉄格子をいともたやすく押し倒し、先へと進行を続けた。このままだと、追いつかれてしまう。僕と沙希は二つ目の鉄格子に手をかけ、さらに前へと進む。ムシカは鉄格子をくぐりぬけた後、蚓它の方に向きなおり、鉄格子を壊そうとする蚓它の一瞬の隙をついて、もう一度粘液のほとばしる皮膚に切りかかった。同じように赤黒い鮮血が勢いよく噴き出し、壁に飛び散る。蚓它は呻き声をあげ、身体を震わせた。
 その瞬間である。蚓它の口から、無数の白い何かが出現するのが見えた。歯だ。まるで人間の歯のようだ。肉を突き破って生えてきて、その度に赤黒い血が噴き出した。それはまるで獲物を捕らえた獣が口から血を滴らせているようにも見えた。もう一度、蚓它がぶるりと身体を震わせたかと思うと、その歯の生えそろった口が、ムシカめがけて伸びてきた。そして、それは一瞬だった。ムシカの腕は軍刀ごと喰われ、深淵のなかへと消えた。ムシカは叫び声も上げずにこちらを向いて「気にせず逃げろ。ここでお前たちを助けるのがきっと僕の役割だ。その役割はシンセカイでも、ベイクド・ワールドでもなく、この僕自身の僕が考える役割だ。僕はムシカじゃない、僕の名前は渡部真琴(ワタベマコト)。僕はずっと彼女の影を追って生きてきた。だだ、それは間違っていた。死と生は永遠に交じり合うことはない。僕はそれがやっとわかった。頼むから、逃げて、生きてくれ」ムシカをそう言って、残っている左腕でスラックスの尻ポケットから何かを取り出し、こちらに投げた。僕はそれを受け取る。
「倉庫の鍵だ。それは誰にも渡すな。そして……」そう言いかけた瞬間、蚓它はもう一度、身体をぶるりと震わせて、今度はムシカの首元をめがけて、飛び掛かった。僕は顔を背け、それから沙希の手を強く握り、地面を勢いよく蹴り上げて、駆け出した。淀んだ空気を切り裂く音、腐った下水道の水を跳ね上げる音、それらがその絶望的な音をかき消してくれることを祈って。
 もはや、僕には何が起きているのか分からない。この状況は人間の理解できる範疇をとうに超えている。僕は駆けながら、胃から得体のしれない何かがせりあがってくるのを感じた。僕は得体のしれない何かを下水道へと吐き出す。つんとした刺激臭が一瞬、辺りに漂う。ただ、そんなことを気にしている場合ではない。後方からは何かを平らげ終え、水をかき分け、這いずりまわる不吉な音が聞こえた。僕は振り返り、それを確かめることはできない。それはすぐ近くのようにも聞こえるし、ずっと遠くのようにも聞こえる。恐怖だ。振り返ってはいけない、振り返ったら、取り返しのつかない現実を突きつけられるような気がした。ようやく左手に通路を見つける。壁を見ると赤いペンキで書かれたDS-105の文字がある。間違いない。この通路を僕たちは曲がった。僕は角を勢いつけて曲がり切り、さらに突き進む。曲がる一瞬、横目をやり不気味な音に視界を向けた。そこには間違いなく奴がいて、こちらに向かってきていた。僕と沙希は深い絶望感に襲われながらも、ひたすら走る、走り続ける。両足は膨張するかのような熱さを帯び、呼吸は大きく乱れた。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだ。意識しなければ息を吸い込むことができない。頭がぼうっとして、明らかに酸素が足りない。瞬間、地響きが起きて、僕と沙希は足を取られて転倒してしまった。振り返ると、奴がこの通路の入口に身体をねじ込ませていた。皮膚表面から大量の粘液を噴出させている。同時にぐいぐいと無理やりに身体をねじ込んでいる。そして、それはいとも容易かった。するりと何事もなかったかのように通路に身体を滑り込ませ、こちら目がけて進行を再開した。しかし、通路横に設置されている配電盤やら、おそらく排水に関わる機器のようなものに身体が引っ掛かり、途中で止まるようだった。今のうちに距離を稼がなければならない。そうしなければ、僕たちは間違いなくあの深淵にいともたやすく呑み込まれるだろう。沙希も憔悴しきった表情をしていた。僕は声をかける余裕もなく、へたりこんだ沙希の手を取って、再び駆け出した。
 右手の握りこぶしのなかには、ムシカ、いや真琴が渡してくれた倉庫の鍵が握られている。何故、彼がこの鍵を持っていたのだろうか。彼は先にここに訪れ、隠されていた鍵を手に入れたということだろうか。カサイは僕たちだけではなく、彼にも鍵の入手を頼んでいたということだろうか。しかし、引っかかることがある。彼はこの鍵を誰にも渡すなと言った。もしカサイから頼まれていたのだとすれば、そのような発言をするだろうか。カサイに渡すようにとお願いをするのではないだろうか。僕は思案した。しかし、考えても、考えてもそこには答えはなかった。少なくとも今分かることは、僕たちはここを生き延びてこの場所から立ち去さなくてはならない。それだけだ。
 身体全身が火照る感覚を覚えた。その火照りを振り切るかのように、僕は今までよりも強く足を踏み込み、前へ前へと進んだ。足もとの水は勢いよく弾け飛ぶ。そして、ようやく僕たちは下りてきた梯子のある空間に到着した。奴はまだ後方だ。僕は震える沙希の肩に手を置いて、目と目をしっかりと見合わせてから、声をかけた。