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ベイクド・ワールド (下)

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 沙希はリュックサックからマンホールキーを取り出し、僕に手渡した。こんな器具、普通に生きていれば、一生触れることのない器具だろう。深夜にマンホールキーを持ち歩いて、排水設備のマンホールを開けるなんて、どうかしている。しかも、下水道の奥にあるはずの鍵を探しにいくわけだ。僕は大きなため息をついた。それから、マンホールキーをマンホールの端の穴に刺し込んで、ひっかけたあとに勢いよくひっぱった。がたっという大きな音がして、マンホールは開かれた。マンホールの蓋は壁側に避けて立てかけておくことにした。僕は自分のリュックサックからカサイからもらった懐中電灯を取り出した。電源スイッチをオンにし、マンホールの奥を照らしてみた。そこには深淵が広がっていたが、時折、地面を捉えることができた。これから僕たちは赤茶色の錆びついた梯子を下りていくことになりそうだ。懐中電灯を僕と沙希はリュックサックの肩ひもにきつく結んだ。それから、梯子に足をかけ、気をつけながら下りていくことにした。

 僕と沙希はマンホールの下に下り立った。梯子は大体20mほどの長さだっただろうか、下りるまでにはいくらか時間がかかかった。梯子は錆びついてはいたが、がたつきはなかった。降り立った場所は円形の空間となっており、先に一本の通路が続いていた。カサイはこの通路を先に進み、右に曲がれと言っていた。あたりには腐敗臭が漂っていた。懐中電灯の光がなければ、すべてが暗闇に支配されてしまうだろう。それほど光を失った場所だった。通路の中央に下水が流れており、左右には狭いが人ひとりが歩けるような歩道があった。僕たちは右側の歩道を歩くようにした。僕が先頭を行き、沙希は後に続いた。沙希は僕のリュックサックから伸びた紐をしっかりと握っていた。ひたすら前に進むと、左右に分かれる道に行きつく。下水はそこに集められ、右から左へと流れていくようだった。そこには歩道はなくなり、水路だけになっていた。しかし、水量はそこまで多くない印象だった。僕はこの場所が分からなくならないように近くに目印を探した。壁に「DS-105」と赤いペンキで書かれた文字を見つけた。僕はこの文字を記憶した。僕たちは右に折れ、さらに前へと進んだ。水量はそれほどだが、水の流れはやや強い。僕たちは水流に逆らいながら、前へと進んでいく。くるぶし辺りに衝突する水流の圧が何とも気持ちが悪かった。まるで目に見えない何かに愛撫されているかのような感覚だ。足をすくわれないように注意する。地面はところどころぬめぬめとした苔のようなもの――視覚で確認することができないからそれが何なのかは判断できない――があって、それを踏むとつるりと滑りそうになった。僕と沙希は前傾姿勢をとって、一歩一歩固く踏みしめ、体勢が崩れないように注意した。
 ふいに目の前に鉄格子が現れ、僕と沙希は頭をぶつけないように姿勢を低くして、くぐり抜けた。どこまでも代り映えのない光景だ。しばらく進むと、右手に通路が見えた。壁には赤いペンキで「DS-104」と書かれていた。さきほどが「DS-105」だから、これは通路ごとのナンバリングなのだろう。同じように進むと再び、鉄格子が現れた。さっきの鉄格子と構造はまったく同じだ。不思議な感覚だ。同じような場所を進んでいると、永遠のループのように思えてくる。それは極めて怖いことだ。進んでも進んでも、同じ場所にしか留まることができない。死ぬまで同じ場所を歩き続けなければならない。それは絶対的な恐怖だ、絶望だ。次に赤いペンキの「DS-103」を確認できた。ひたすら進み切ると、ようやく広い空間に突き当たった。カサイはこの場所に鍵があると言った。この空間の下水道の空気はどこよりも停滞し、腐敗しているように思えた。しかし、この腐敗した場所に生きるものもきっとどこかにはいるのだろう。ここでしか、その何かは生きることができないのかもしれない。その何かは我々と対立する概念をこよなく好み、例えば、生と死の概念があれば、彼らは死を好み、創造と破壊の概念があれば、彼らは破壊を好む。そのようなどうでもいい妄想が頭にまとわりついた。僕は頭を左右に振り、おかしな妄想を振り払った。鍵を探すが、壁を見渡してみても、天井を見渡してみてもどこにも見当たらなかった。
「いったい、どこに鍵があるというんだろう」と僕は呟いた。
「どこにもそれらしいものは見当たらないようね」と沙希は言って、辺りを探索しはじめた。それから、何かに気づいたように声をあげた。「ここは部屋かしら」
 沙希が指さした方向をみると小部屋があった。鍵はかかっていなかった。僕と沙希は扉を開き、その中に入った。部屋は排水の制御をするための場所だろうか、機器類が設置されていた。ロッカーも置かれていたので、その中を開いてみたが、掃除器具が置かれているだけで、何も見当たらなかった。その隣に金属性の小さな机があり、抽斗があったため、すべて開けてみたが、やはり鍵は見当たらなかった。
「どこにもないじゃないか」と僕は言った。
「そうね、まいったわね」
 僕と沙希が大きなため息をついた、その瞬間である。扉の外に何か物音が聞こえた。巨大な何かが這いずり回るような音だ。一瞬、音が鳴りやんだかと思ったら、その巨大と思われる何かが水のなかに落ちたような音が生じた。水飛沫が扉にあたり、さらに大きな音を立てた。厭な予感がした。不気味にうごめくものの気配を感じる。先ほどの妄想が蘇る。
 恐る恐る扉を開き、外に出ると、そこには巨大な蚓のような生物がいた。それには目もなく、鼻もなく、耳もない。おおよそ感覚というものを感じることのできる器官は見当たらなかった。ねばねばとした白い体液をうすい表皮からだらだらと垂れ流しながら、腸の蠕動運動のように身体を右、左にくねらせながら動いていた。
「蚓它(インタ)」僕はとっさに呟いていた。沙希のシンセカイに登場する生き物で、蚓と蛇の複合概念として想像したものだ。象蟲を再生するための条件である最後の条件には「忌み嫌われている生物である蚓它を食べること」とあった。僕はその姿を見て、とっさにそれを想起したのだ。
「何故、奴がここにいるんだ」
 瞬間、蚓它はこちらに気づいたようで、身体を向け、突進し始めた。僕は沙希の手を取って、横方向に回避した。蚓它は僕たちがいた部屋の扉に勢いよくぶつかり、扉をぐにゃりと変形させた。
「逃げるしかない」と僕は言った。沙希は頷いて、僕らは入ってきた入り口めがけて、走った。
 蚓它は身体を上下左右に揺らし、扉にめりこんだ頭部を引き抜いた。そして、こちらに踵を返し、再び迫ってくる。ふいに沙希が足を滑らせて、転倒する。
「足が溝に挟まって抜けない」と沙希は叫んだ。
 僕はすぐにしゃがみこんで、沙希の足先を手探りで探す。跳ねた下水が顔面にかかるが、気にせずにがむしゃらに探る。
「奴が来る」
 僕は沙希の靴と足をつかみ、思いっきり引っ張る。蚓它はこちらに速度をあげて近づいてくる。もう駄目だと思った瞬間、すっぽりと足が抜けて、その力の反動で僕と沙希は転げた。蚓它はすぐ目の前にいた。僕と沙希は座り込んだ状態で後ずさりする。下水の水が僕らを堰として跳ね上がる。