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ベイクド・ワールド (下)

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第十七章 雷にうたれて死んだ人間と、雷にうたれて生まれた人間



 スマホで時刻を確認すると、午前0時を回ろうとしていた。今からカサイに報告するには僕たちの身体はひどく疲れ切っていた。お互いに話し合って、報告は明日に回すことにした。
「終電も過ぎているけれど、これからどうするつもりなの?」と沙希が僕に訊ねた。僕はしばらく思案したあと、徹のアパートに泊まることを思いついたが、沙希にどのように説明すべきか悩んだ。沙希には妹がいることは伝えていたが、兄の存在は伝えていなかったからだ。僕はもう一度深く思案したあと、このような嘘を思いついた。
「僕の父親は静岡市内の出版業者に勤めていて、編集作業のための場所として、小さなアパートを一室借りているんだ。今日はそこに泊まろうと思う。今日父親は家に帰っているはずで、きっと空いているはずだから」
「そうなんだ」と沙希は言ってから、口元に手を運び、何やら考え込むような仕草をした。「良かったらなんだけど、今日は私もそこに泊めてくれないかな。今日はひどくくたびれているし、早く休みたいの」
「でも、家には帰らなくてもいいの?」
「両親には今日は友達の家で遊んでいると伝えていて、遅くなったら泊まるかもしれないと事前に伝えてある。だから大丈夫よ。一応、あとで友達の家に泊まることになった、と連絡を入れておくつもりだけど」
「そういうことなら、僕は構わないけれど」
 沙希の表情を見れば、彼女がひどく疲れているのがよく分かった。そして、それは僕も同様だろう。具象化は肉体的にも精神的にも想像以上の疲労をもたらした。想像力を維持し続けるというのは極めて困難なものだった。
「お互いにひどく疲れているし、一緒にアパートに帰ろうか」
「ありがとう。助かるわ」

 アパートの鍵を差し込み、扉を開け、僕たちは部屋のなかへと入る。よどみ切った徹の部屋の空気は、やはり黴を繁殖させていた。黴の匂いが鼻をかすめる。部屋の電気をつけると、ようやく現実の世界に戻ってこられたような気分になり、身体の力が一気に抜けた。壁際のソファを指さし、僕は沙希に言った。「疲れただろう。そこのソファに腰をおろして、休んでいていいよ」
「ありがとう。そうさせてもらうわ」沙希はそう言って、持っていたリュックを背中から降ろした後にソファに座った。そして、大きなため息をついた。
「お茶をいれるよ。お腹も空いただろうし、さっきコンビニで買ったおにぎりを食べよう」
 僕はキッチンに向かい、薬缶に水を入れ、コンロの火を点ける。急須を用意し、引き出しに仕舞われていた茶葉を取り出し、急須に入れる。しばらくすると、薬缶から蒸気が噴き出す音が聞こえる。ガススイッチを切り、お湯を注ぐ。それから僕は部屋に向かい、さきほどコンビニで買ったおにぎりをソファの手前にあるガラステーブルの上に置いた。そして、湯呑を二つ置き、茶を注いだ。
「ありがとう」と沙希は言った。
「さあ。食べようか」
 僕は少し苦みのあるお茶を啜りながら、鮭おにぎりを頬張った。ひどくお腹がすいていたから、あっという間に平らげてしまった。自分でも驚くほどだった。これほどまでに僕の身体は栄養を欲していたのかと思うほどだった。そして、それは沙希も同様だった。
「今日はひどく疲れたわ。具象化の影響かしらね」と沙希は言った。
「その可能性はあるだろうね。想像力を維持することはなかなか難しい。少しでも集中力が途切れると、具象化が解かれてしまうからね」
「私のSin-Sekaiという小説も、私の想像力を具象化したもの。しかし、その想像力が不完全であったから、ベイクド・ワールドという奇妙な世界に遷移してしまった」
「君は気にすることはないよ」僕は沙希の肩に手を置いた。「この街は謎に満ちている。誰のせいでもないさ」
 沙希は湯呑に手を伸ばし、茶を啜った。それから、ゆっくり湯呑をテーブルに戻し、口を開いた。「亜季は、ムシカの話をどう感じた?」
「ムシカにあのような過去があったなんてね。正直驚いたよ」
「この世界には暴力が溢れかえっていて。世界は残酷で不条理ね。ベイクド・ワールドの世界も同様だけれど。何故、彼がムシカの現実存在として選ばれたのか。私は彼のことを知らなかったし、モデルにしたわけではないのに、彼はムシカとして実在を得た。とても不条理ね。私が様々なことに影響して、世界をこんな風にめちゃくちゃにしてしまったのよ」沙希は両手で顔を覆った。
「きっと違うよ」と僕は否定した。「カサイの言うことを信じれば、この世界は元から奇妙な世界だ。1980年の静岡駅地下街の爆発事故が思惟の暴発で起きたという時点で、この街は既に変質している。しかし、僕たちにはそれをどうすることもできない。今は、カサイの言うとおり、思惟の破壊を介して、暴発が起こらないように対処するしかできない。やれることをやるしかないんだ」
 沙希は覆われた両手を解いて「ありがとう」と言った。

 僕たちはシャワーを浴びることもなく、今日の汗と記憶を身にまとったまま、眠りにつくことにした。それほどに僕たちの身体は疲れ切っていたのだ。しかしながら、僕は眠りにつくことはできないわけだけれど。沙希は布団で寝て、僕はソファで寝ることにした。くたびれたソファのスプリングは僕の体重に悲鳴を上げていた。その軋む音は、これから起きる不吉な出来事を予言するかのようだった。
 ふいに、沙希が口を開いた。暗闇に包まれた部屋に声がする。「ここがお父さんの部屋だというのは本当?」
「どうして、そんなことを聞くんだ?」僕は落ち着き払った口調になるように注意して、そう言った。どういうことだろう。何故、そのような質問をするのか僕にはわからなかった。
「いえ、なんとなく。違うような気がしたの。この部屋は他の誰かの部屋のような気がしただけ。そして、その人はあなたにとって、とても大切な人のような気がする」と沙希は言った。「でも、それはあなたのお父さんなのかもね。ごめんなさい、変なことを聞いてしまったわ」
 僕は心臓の鼓動が早くなっていることに気づいた。とくん、とくん、という鼓動音が部屋に鳴り響いているようだった。しばらく沙希の言葉を反芻したあと、僕は沙希になら、徹のことを正直に話しても良いような気持ちになった。彼女であれば、理解してくれるような、そんな気がしたのだ。僕が一呼吸置いたあと、話をはじめようとしたとき、それは起こった。
 凄まじい音が鳴り響き、それから少し間を開けて、部屋にある窓硝子が全てはじけ飛んだ。僕はとっさにブランケットで顔を隠した。一体、何が起きたのかすぐには理解できなかった。まるで、爆弾が爆発したかのようなすさまじい音だった。耳鳴りがして、聴覚が完全に奪われた。僕はゆっくりと立ち上がり、電気スイッチを入れた。沙希は布団の中に潜り込んでいたが、しばらくしてから顔を出した。
「何が起きたの?」と沙希は言った。きっと彼女は大声だったと思うが、耳鳴りが混じって、なんとか聞き取れる程度の音量のように思えた。
「分からない。何かが外で爆発したようだ。硝子が割れていて危険だから、少しそのままで待ってて」