ベイクド・ワールド (下)
「僕は本当の意味で死を覚悟できていなかったんだ。彼女のためなら、一緒に死ねると思っていた。ただ、それができなかった。そのあとを追うことだってできたのに、それもできなかった。僕は今も、こうして生きている。そして、こちら側の生の世界で彼女と会うことを望み、カサイに言われたとおりに行動している。僕は……。本当に憶病で情けない人間だ」ムシカはそう言って、ナイフから軍刀に具象化し直して、大きく振りかぶりながら、続けざまに思惟を切り捨てた。それから息を切らしながら、俯いた。
僕はムシカにかける言葉を探したが、そこにはかけられる言葉はなかった。沙希も同様だったのだろう。口を閉ざしていた。
ムシカは小さく笑ってから口を開いた。「ほら、きわめて個人的な問題だと言っただろう? 君たちは気にする必要はないよ。さっきの思惟で最後だったようだ。今日はこれくらいでいいだろう。仕事は完了だ。僕はもう少しここでゆっくりしていたいから、君たちはカサイに報告してくれ。よろしく頼む」
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〜深瀬徹の手紙 3〜
黒い袋を剥がされた男の顔を俺は見た。二十代前半の男のようだった。今までに見たことのない男だ。男は虚ろな瞳をしていて、俺を空虚に見つめた。俺はその視線に今まで感じたことがないほどの恐怖を感じた。何故、縛られた男の空虚な視線に、それほどまでの恐怖を感じたのか、その時は分からなかった。ただ、それは耐えがたいほどの恐怖だった。俺の存在が脅かされてしまうかのような、とてつもない恐怖だ。
気づいたときには、俺はその男の首を絞めつけていた。男は抵抗をしなかった。俺の両手は男の首にすっぽりとおさめられ、気管を完全に塞いだ。しばらくして俺が手を離すと男はまったく動かなかった。あっという間だった。頭を垂れ、ぐったりとしていた。俺は後ずさりし、部屋の扉を後ろ手に開け、再び暗闇の世界に入り込んだ。
俺は何度も壁にぶつかりながら走った。別れ道も考えず、行き止まりに当たれば、すぐに引き返し、別の道を進んだ。深い闇のなかにはくぐもった荒れた呼吸しか聞こえない。俺はどれだけの時間、走り続けたのかわからなかった。暗闇のなかでは時間の経過と言うものが意味をなさない。
そして、ついに俺は階段を見つけた。勢いよく階段を駆け上がった。つまずきながら、暗闇の先の光を求めて、駆け抜けた。ふと、俺の耳の奥から男の呻き声が聞こえてくる。黒い心臓が拍動する音が聞こえてくる。俺は目を閉じ、耳を塞ぎ、口を閉じた。
そして、ついに扉に辿りつく。勢いよく扉を開ける。しかし扉の向こうは地下街ではなかった。森のなかだったんだ。目の前にはテントが張られたキャンプ場が見えた。俺はゆっくりとそちらに向かった。俺を見つけた保護者たちが何かを叫びながら俺の元へ駆け寄った。俺にとって、保護者達の発する言葉はどこか違う世界の言語のようだった。俺は君の姿を探した。ログハウスの小窓から君が俺を眺めているのがすぐにわかった。俺が変わってしまったことに君がすぐに気づいたことにも、俺は気づいた。保護者が俺を抱きしめ、声をかける。でも、そんな声は俺には届かない。
君はあの時、ひどく怯えていた。兄の形をした得体のしれない何かが帰ってきた、と直感的に感じていた。俺はドナルド・デイヴィッドソンの提唱するスワンプマン(泥男)のようなものだ。雷はひとりの男を殺すが、雷は同時に泥から男に似た何者かを生み出す。その変化に気づくことは難しいが、それは明らかに変質している。後に俺は、黒い心臓の男は幻覚でも夢でもなかったことに気づくことになる。何故なら俺のなかに黒い心臓の男はずっと潜んでいたからだ。
俺は年を重ねていくたびにあることに気がついたんだ。鏡をみるたびに、俺の顔が徐々に、あの黒い心臓の男に近づいていることに。そして二十歳を迎えたとき、俺の顔はあの男と恐ろしいほどに似てきてしまった。
いや、似ているという表現は不適切だ。あの男はつまり“俺自身”に他ならなかったんだ。あの時、俺はアパートの一室で俺自身を殺したということになる。だから、俺は死ななくてはいけなくなった。幼き俺の責任をとらなければならなかったから。ただ俺が死んだ理由はそれだけじゃない。もうひとつ重要な理由がある。それは君に対して多大を影響を及ぼすかもしれない。
ここまで読み進めてくれたならば、きっとこのあとも読んでくれるだろう。俺の責任を君に押し付ける形になってしまったのは俺にとって非常に残念なことだ。本当に申し訳ないと思う。けれど俺たちは血のつながった兄弟だ。君はきっと俺のことを理解してくれるだろう。俺は君を愛している。もちろん、玲も愛しているし、克也も涼子も愛しているんだ。俺の最後のわがままを聞いてほしい。俺の不甲斐なさと弱さを認めて欲しい。
これから先も読み進めてくれることを俺は望んでいる。
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作品名:ベイクド・ワールド (下) 作家名:篠谷未義