ベイクド・ワールド (下)
第十六章 血の流れる戦場に立つ
僕たちが駿府城跡に到着した時、時刻は午後九時を回ろうとしていた。辺りの湿気が異様に高く、全身にまとわりつくようで気持ちが悪かった。人気が少なく、公園内を歩く人はまばらだった。ムシカが先頭を歩き、僕と沙希が後を着いていく形だ。これからこの場所に溜まっている思惟を破壊していくわけだ。『思惟の暴発』とムシカは言った。思惟の意味も、それが暴発することの意味も、ほとんど分からない状態で僕たちは手探りで行動しなければならない。『軸』が失われた世界では、それに代わる新しい『軸』が必要になるということだ。目的が失われたときに、人は行動する『軸』を失ってしまう。その『軸』がなければ、人は一切行動に移せなくなってしまう。今は、ムシカ、そしてカサイに頼って行動するしか、僕と沙希には方法はない。
ムシカがふいに立ち止まり、振り返った。そしてゆっくりと口を開いた。「心の準備は大丈夫か?」
僕は一呼吸おいてから「問題ない」と言った。「というよりも、今やるべきことは限られている。とりあえず君に従うしか僕たちには行動の指標というものがないんだ」
「軸が喪失してしまったからね」ムシカは小さく笑った。それから沙希を見た。「今は沙希のシンセカイからベイクドワールドに世界は遷移してしまった。ただ、カサイが言うことを信じるなら、それ以前にこの『街』はおかしな『街』であったようだけどね。1980年の静岡駅地下街の爆発事故がこの思惟の暴発によるものであるなら、少なくとも僕たちが生まれるよりも以前に、街は既に変容していたということだよ」
「謎が多すぎるわね」と沙希は言った。「でも、今はその思惟の暴発が起こらないために、街に溜まった思惟を壊さないといけないということよね」
「そのとおり。きっとこれはシンセカイにも書かれていなかった展開だろう。アルビナとムシカが協力して、街の思惟を破壊するなんてね。それも想像者たる沙希も一緒に行動してくれるわけだ」ムシカはそう言いながら、公園の道を外れた林の中に足を踏み入れた。
僕と沙希もムシカに続いて、林の中を進んだ。若干ぬかるみを感じる土で足を取られないように注意した。木々や葉をかき分けながら、ゆっくりと進んでいく。蜘蛛の巣が顔に引っかかる感触を覚え、僕は手で振り払った。辺りに人気がなかったのは幸いだった。三人がぞろぞろと道なき林に足を踏み入れる様は明らかにどうかしているのだから。ムシカは歩みの速度をあげて、前に前に進んでいった。僕は後ろにいる沙希の進み具合を確認しながら、後をついてく。時折、沙希に大丈夫かどうか声をかけながら。沙希は少し息を切らしながら、大丈夫と答えた。
カサイは一体何者なのだろう、と僕は考えた。駅で見かけた時は、怪しげなポークパイハットの男としか思っていなかった。それが、沙希のシンセカイについても把握していて、この街の秘密についても知っているようだった。いいかげんな言動からどこまでが真実なのか、掴みどころがまったくないが。駅の倉庫の管理人? その倉庫は人々の思惟を集め、解体したあとに外界へ放出するらしい。それがなければ、思惟が暴発してしまう。それが現実世界に物理的な爆発事故ももたらすのか? そして、倉庫の鍵は何者に盗まれたのだろう。沙希のシンセカイが燃やされたのは、街が均衡を保つために街自身が行ったとカサイは言った。倉庫は街を正常に機能させるために必須のものであるから、街側の存在だろう。そう考えれば、街自身が鍵を盗むということはないだろう。だとすれば、誰が何の目的で鍵を奪ったのだろう。しかし、そこには答えはなかった。考えても、決して答えを導けないことは確かだった。
林の中をようやく抜け、少し開けた場所に出た。
「これが思惟だ」ムシカはそう言って、目の前を指さした。指さす方に目をやると、黒い繭が大量に地面に落ちていた。大きさはそれぞればらばらで、形も異なり、球形なものから歪なものまで様々だった。カサイに見せてもらった思惟は小ぶりで綺麗な球形のものだったが、どうやらバリエーションがあるようだ。
「いろいろな形があるのか」と僕は言った。
「もちろん。君の顔と僕の顔が違うように、君の思惟と僕の思惟の形も当然に違う。人によって形も大きさも異なる。それがアイデンティティというものだろ?」
「これを今から壊すのね」と沙希は訊いた。
「ああ。マックで練習したように、ナイフを具象化して一つずつ壊していく。具象化はもう慣れたかな?」ムシカをそう言って、手を振り、小ぶりなナイフを具象化した。月の光に照らされて、不気味な色を帯びていた。
僕は目を閉じ、ナイフを想像した。大きさ、重さ、質感、それから匂いまで、些細な特徴を事細かに想像する。そうすると、右手に実体を徐々に感じてくる。想像した重さを手に感じる。ゆっくり目を開くと、そこにはムシカよりもさらに小ぶりなナイフが握られていた。沙希に目をやると、沙希の手には木製の手持ちのあるフルーツナイフが握られていた。
「具象化は問題なくできるようになったようだね。じゃあ、その想像したナイフで思惟を壊していく。手では触れることができないから、ナイフをそのまま突き刺すんだ」ムシカはそう言って、地面にしゃがみこみ、思惟に向けてナイフを突き刺した。その瞬間、黒い繭は死にかけた動物のような呻き声をあげ、悶えるように形状を変えたあと、地面をのたうつようにして消失した。
僕と沙希はその声と痛みに悶えるような動きに驚いた。「カサイが黒い繭の壊し方を教えてくれた時と全く反応が違う。その時は音もなく、その場から消えた」
ムシカは奇妙そうな顔をした。「僕が街の思惟を解体する時は、すべてこういった反応だ。カサイが例で見せた思惟がおかしかったんじゃないのか?」
「まるで殺しているようね。思惟が痛みに悶えて、苦しんでいるように見える」と沙希は言った。
「ただ、そうしなければ、この思惟は暴発を引き起こして、本当の人の血が流れてしまう。そんな血の流れる戦場にならないためにも、これはやらなくてはならない。思惟は、人々の思考、感情、想像力、そういったものが心の奥底に不要な廃棄物のように溜まっていった塵溜めのようなものだ。これらは確実に壊さなくてはならない」
僕の耳には先ほどの思惟の叫び声がこびりついていた。しかし、ムシカの言うとおり、やらなければもっと最悪な事態が起きてしまう可能性がある。僕は沙希と目を合わせてから頷いた。「分かった。取り掛かろう」
「ああ、よろしく頼む」とムシカは言った。
僕はムシカがそうしたように、ゆっくりと地面にしゃがみこみ、小ぶりの思惟に狙いを定めた。右手に力がこもり、ナイフの柄がきしむ音を立てた。汗がじわりと滲むのを感じた。一呼吸おいたあと、勢いをつけて、ナイフを思惟めがけて振り下ろした。先ほどの思惟とは異なる、一瞬の叫び声をあげて、辺りにはじけ飛んだ。
「思惟の最期もそれぞれということだ。気にせずに進めよう」とムシカは言った。
作品名:ベイクド・ワールド (下) 作家名:篠谷未義