ベイクド・ワールド (下)
「それはさっき言ったように、詳しくは言えない。というより、言いたくないんだ。それはきわめて僕個人的な問題だから」ムシカは一度、言葉を区切って僕を見つめた。「君には本当に悪いとは思っているんだ。君を物理的に傷つけてしまったからね。ただ、その痛みは必要なものだったんだ。シンセカイのムシカもアルビナと痛みを伴う諍いを起こした。僕は忠実に自分の役割を遂行したんだよ、シンセカイのムシカがそうしたようにね。象蟲が再生する前に狐像もちゃんと破壊した。この刀を使ってね」ムシカがそう言うと、彼の左手には古びた刀が握られていた。鞘は濃緑色の金属製でところどころ塗装が剥がれており、柄は木製でできており、手跡が滲んでいた。随分、使い込まれたもののように見えた。マクドナルドと刀という異様な組み合わせは、まるでダリの絵画のように、極めてシュールだった。
「これは九五式軍刀と言って、旧日本軍の士官が使用していた刀なんだ。僕の曽祖父の形見で、家で保管されていた物。当然、これは本物ではなくて今、具象化した想像産物なわけだけど。第四しんぼるはこの刀で破壊したんだ。シンセカイのムシカも、曽祖父オドヴァジュナヤの形見の刀でしんぼるを破壊していたからね。だから僕は忠実に役割を遂行したというわけだ」
「そうか。僕と沙希は第四シンボル以外のしんぼるを全て破壊したわけだから、つまり象蟲の再生は問題なく免れることができていたということなのか」と僕は言った。
「そう。ただ、シンセカイが燃やされてしまったことで、ベイクド・ワールドという世界に物語が移行してしまったけれどね」
「その、シンセカイを燃やしたのは……」と沙希は呟いた。
ムシカは小さく頷いてから「そう……この街だよ」と答えた。「街そのものだ」
「僕たちは何をすればいいんだろうか」と僕は言った。
「とりあえず、思惟を壊さなければならない。思惟の暴発を引き起こしてはいけない。それだけしか、今のところわからないんだ。思惟は駿府城跡に溜まっているようなんだ。何故か、ここだけに集中している。今からそれを壊しに行くことになる。協力してくれるかい?」
僕と沙希はお互い顔を見合わせて頷いた。
「君たちは、武器を具象化することができるかな? 相手に痛みを与えることができる物ではなくては、思惟は破壊することができないんだ」
僕は目を閉じ、ナイフを想像する。真っ黒なスクリーンのなかにナイフを思い浮かべる。ナイフの形態、質感、匂いまで詳細に思い浮かべる。目を開けると、そこには小ぶりなキッチンナイフが握られていた。
「それでいい。キッチンナイフも痛みを与えるには十分だ。沙希、君はできるかい?」
沙希は目を閉じ、深呼吸する。そうすると右手には瞬時に拳銃が出現した。ムシカは大きく笑った。
「拳銃か。カサイが具象化していたものと同じ形式のものだね。旧日本軍が使用していた十四年式拳銃だ。沙希、その拳銃のこと知ってるかい?」
沙希は首を横に振った。「知らないわ。十四年式拳銃と言うの? これ」沙希はまじまじと拳銃を見つめた。
「そう。1920年代中期に開発された拳銃だ。弾は日本軍独自の8x22mm南部弾を使用している。ちなみに装弾数は弾倉8発と薬室1発だ。沙希、このことも知らないだろう?」
「うん、知らないわ」
ムシカは小さく笑ってから、「じゃあ、引き金を引いてごらん」と言った。
沙希は目をまん丸にして驚いた。「危ないでしょ?」
「大丈夫だよ。大丈夫だから、引いてごらん」
沙希はもう一度ムシカを見つめた。それから、恐る恐る引き金を引こうとした。しかし、引き金はまったく動かなかった。
「これが不完全な想像力の意味するところだね」とムシカは言った。「外観をいくら詳細に想像しようとも、内部構造を知らなければ、機能的な拳銃を具象化することは難しいということだ。仮に、内部構造も熟知し、機能的な拳銃を具象化できたとしても、それを使うことも困難なんだ。拳銃の場合、弾丸も具象化するわけだろう? 弾丸が撃ち放たれたあとも弾丸に対する想像力を切らしてはならないからね。それを維持し続けるというのは相当難しいんだよ。僕も、カサイの拳銃を借りて具象化してみたけれどまったく駄目だった。弾も出もしない。思惟の破壊に関してはナイフや刀といった単純な構造をもつ武器で十分だよ」
「そうなのね」沙希は残念そうに声を漏らした。それからもう一度目を閉じ、深呼吸をした。そうすると小ぶりなナイフが沙希の右手に出現した。
「そう、それで十分だ。じゃあ、準備はいいね。これから駿府城跡に向かうよ。思惟を破壊しに行こう」とムシカは言った。
僕たちは小さく頷き、マクドナルドを後にした。
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〜深瀬徹の手紙2〜
亜季、どうやら決断したようだね。俺がこれから語る話を君が信じてくれるかは分からない。頭が狂っているんじゃないかと思うような内容をこれから書くことになるから。
俺はグループの皆と一緒に森のなかを歩いていたわけだけれども、知らぬうちにひとりになってしまったんだ。さっきまで一緒に居た友人たちが一人もいなかった。辺りを見渡してみても誰も見当たらない。普段、滅多に慌てない俺もその時は慌てたよ。
そして、俺は森のなかをひとり彷徨うことになった。しばらく歩いていると森の奥に街が見えた。俺は自分の眼を疑うしかなかった。だってそうだろう? こんな山奥に街なんてあるわけがないんだから。しかも、驚いたのは、その街が静岡の市街そのものだったんだ。うりふたつというよりも、まさにそのものだった。
ただ人は一人も見当たらなかった。俺は誰もいない街を歩き続けた。階段を下り、地下街に出ると、奇妙な音が聞こえてきた。まるで男の呻き声のような不気味な音だ。俺はその音のする方へと誘われるかのように向かっていった。歩けば歩くほど、音は徐々に近づいてくる。どうやらその音は地下街にある倉庫の向こう側から聞こえてくるようだった。俺はその扉に手をかけ、押してみた。普通ならば、鍵がかかっているはずなのに、その扉は開いたんだ。男の呻き声はさっきよりも鮮明に聞こえるようになった。扉の向こうは下り階段になっていた。俺は真っ暗なその階段をゆっくりと降りて行った。一歩一歩、しっかりと踏みしめて。地下はひどくじめついていた。壁に手をつけながら進んでいくんだけれど、壁にはコケのような得体のしれないものが張り付いていて、気色の悪い感触がした。階段を降り切ると、道は二手に分かれた。俺は耳を澄まして呻き声のする方向に向かっていった。しばらく進むと、また二股道だ。その度に耳をすませて、道を選んだ。それを何度も何度も繰り返した。
作品名:ベイクド・ワールド (下) 作家名:篠谷未義