ベイクド・ワールド (下)
「こんな風に、お前たちには街に散らばっている思惟を壊して欲しい。そのためには、まず具象化をできるようにならなくちゃいけねえが」
「こんなこと、できるわけがない」と僕は言った。
「できないと思っちゃいけないんだ。できると考えろ。まずナイフの構造を事細かに想像する。その表面から内部の構造まで、質感、匂いまで事細かに思い浮かべるんだ」
僕は目を閉じ、ナイフを想像した。その大きさ、重さ、質感、さまざまな特徴を事細かに想像した。目を開く。しかし僕の手にはナイフは現れない。
「できない」と僕はため息をついた。
「もう一度だ」とカサイは言った。
もう一度試してみる。心を空っぽにして、ナイフのことだけを考える。すると次第にナイフの感触が僕の手に伝わってくる。目を開くと僕の手にはナイフが握られていた。
「ほら。できたじゃねえか」カサイは口を大きく開けて笑った。
僕は息を飲むことしかできなかった。あまりにも容易くできてしまい、信じられなかった。
「続けて、想像を解いてみろ。ナイフを解体しろ」
僕はナイフに対する想像力をゼロにする。何もかもを空っぽにする。するとナイフが僕の手から跡形もなく消えた。
「今のところ、お前にはそのキッチンナイフが限界だろうな」カサイはそう言って、右手に何かを具象化した。見ると、彼の手には鈍く黒光りする拳銃が握られていた。「想像力を制御することができれば、何をすることもできる」
僕も彼の持つ拳銃を具象化しようとしたが、僕の手には何も現れなかった。
「今のお前には無理だ。物事を想像するためには、その構造を詳細に理解していなくてはならない。理解の及ばないところには想像力は存在する余地はないってわけだ。お前は諦めてそのキッチンナイフで黒い繭を壊すんだ」
隣の沙希が突然「できた」と言った。振り向くと、沙希はその小さな手に拳銃を握りしめていたのだ。
カサイはまたもや大笑いした。「お前ら二人なら、思惟の解体を任せられそうだな。それにもう一人、サポートをつけるから心配は要らないな」
「もう一人? いったい誰ですか?」
その瞬間、入り口の扉が開くのが聞こえた。
「来たな」カサイは入り口に振り向き、手を振った。「こっちだ」
僕と沙希も入り口に振り向いた。僕は驚かずには入られなかった。何故なら、そこには黒いフードを被ったムシカが立っていたからだ。
「取りあえず、この後の話はムシカに任せることにする」とカサイは言って、立ち上がった。
「まだ、訊きたいことが沢山ある」と僕はカサイに言った。
「今日はここまでだ。それに俺はいつだって駅地下で突っ立ってるんだ。訊きたいときにはそこに来ればいい。今日は結構酔っちまったからな。とりあえず、今お前たちがやるべきことは『ムシカと一緒に思惟を解体していくことだ』。それしか、今のお前たちにできることはない」カサイはふらふらとした足取りで、ムシカの肩を叩いて、「後は頼んだ」と言ってから店を出て行った。
ムシカはカサイが座っていた場所に座り、僕と沙希を見た。僕は警戒をした。
「そんなに怖がらないでくれよ」とムシカは言った。「あの時、君の頭を殴ったのは悪いとは思ってるんだよ。でも仕方なかったことなんだ。許してくれ。これからは本当に信頼できる協力関係になろうじゃないか、アルビナ、そして沙希」そう言って、ムシカはフードを取り、笑みを浮かべた。それから、こう彼は付け加えた。「君たちにはまだ話すべきことはたくさんあるし、これからやらなくてはならないこともたくさんある」
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『深瀬亜季ニ宛テル』
〜深瀬徹の手紙1〜
さて、亜季には話さなければいけないことがたくさんあるけれど、まずは君がもっとも疑問に感じているであろう俺の死について語ろうと思う。俺の死をもっとも奇妙に感じるのはきっと君だと思うし、さまざまな意味で大きな影響を受けるのも君だと思う。それは、克也でも涼子でも玲でもない。『君』が多大な影響を受ける。俺の死は、これからの君の在り方に著しい変革をもたらしてしまうと思う。
もちろん、俺は君に迷惑をかけたくはなかったから、自らの死を回避したいと思っていた。けれども、それが不可避になるくらいに事態は緊迫してしまったんだ。要するに、俺の死は有るべくして起きた出来事ということで、俺の意志で実行されたことであるということだ。なぜそうなってしまったのかというと、それはすべて俺の責任だ。俺がもたらしたものだ。
俺はある時から変わった。君はおそらくそのことに気がついていた。けれど、克也も涼子も気づいていなかった。玲はあの時、まだ小さかったから無理もないだろう。でも、君は俺の変化に気づいていた。そうだろう?
覚えているか? 君がまだ七歳だった頃、地域で夏休みにキャンプに行っただろう? 俺が行方不明になって、翌日に何事もなかったかのようにひょっこりと戻ってきた。あの時を境に俺は変わった。俺は君に気づかれないように注意していたけれど、君は気づいていた。ただ、なにがどう変化したのかまではわからなかったんじゃないか。
その点で言えば、俺は君をうまく騙せていたと思う。さて、そのときの俺の変化と今回の俺の死に関連性があるのかと君は疑問に思うだろう。
答えは、「もちろんある」、だ。
これからその詳細について話していきたいと思う。けれど、その前に君に問うべきだと俺は思う。俺を変革させた要因、それから俺が死に至った要因、そして俺の君に対する気持ちを知りたいのかどうか、ということを。
もし知りたいと思うのなら、この手紙の続きを読んでほしいし、もし知りたくないのなら、この手紙は今すぐ破り捨ててしまってもかまわない。
時間をかけて、慎重に選んで欲しい。いくらでも俺は待つさ。
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作品名:ベイクド・ワールド (下) 作家名:篠谷未義