ベイクド・ワールド (下)
「ああ。それは、人々の思考でもあるし、人々の感情でもあるし、人々の想像力でもある。人々は多くの思惟を抱えて生きている。だがな、それをすべて外部に吐き出しているわけじゃねえ。例えば“気に食わねえ奴をぶん殴りたい”と思ったとしても、多くの人間はその行動には移さない。そうしたとき、その感情は何処へ行くと思う? 感情ってのはな、排出されない限り、心の奥底に不要な廃棄物のように溜まっていき、気づいた時には失われるものだ。俺は、そんな廃棄物のような感情を収集し、管理している。まあ、それ以外にも役割はあるが簡単に言えばそんなところだ」
「話が抽象的すぎて、僕には理解できません」僕は正直に言った。
「ああ、これは頭で理解できるもんじゃない。これは俺に与えられた役割だ。俺は黙ってそれを忠実に遂行しなくてはならない。俺は街が抱えた人々の思惟を回収し、倉庫に集め、それを解体したあと、再び街に放たなければならない」
「倉庫?」
「ああ、駅地下街に倉庫がある。俺がこのプラカードをもって突っ立ていた後ろの壁に扉があっただろ?」
確かに彼の後ろには分厚い銀色をした扉があった。だがそれは駅地下から避難するための非常用扉だった。
「あの扉はただの非常用扉じゃねえ」とカサイは言った。「あそこは思惟を回収するための倉庫だ。俺は毎日阿保みたいに突っ立ってたわけじゃない。ちゃんと、あの場所を管理していたんだ。倉庫の鍵は俺だけが持っている。俺は毎日せっせせっせとそこに集められる思惟を解体し、街に放つんだ」
「思惟を解体し、街に放つという意味には何の意味があるんですか?」
「簡単さ。均衡を保つということだ。何事にもバランスってのは大切だ。そのバランスが崩れるといつだってとんでもないことが起きる。沙希のシンセカイが燃やされたのも、この均衡が崩れたことが原因だ」
沙希はカサイをじっと見つめ、「どういうこと?」と訊いた。
「何故だか原因ははっきりしているわけではないがな、お前の想像力で生み出したシンセカイという物語がこの街に干渉した。つまりそれは、鯉を大量死させたり、マンホールの大消失を引き起こしたり、オタマジャクシを空から降らせたことだ。そのような事象はこの街には不要だった。つまり、シンセカイが街に介入することは、この街にとってイレギュラーな出来事だったんだ。だから、街が自らお前のシンセカイを燃やすことで、お前の想像力を奪い取った。それによって、街の均衡を再び保つことができると思った。だが、それは何故か失敗に終わった。沙希という軸だけが失われただけで、物語の断片は街に残ってしまった。例えば、お前だ、アルビナ。お前がアルビナとしての役割をまだ持っているように、物語の想像人物は、その物語を想像した者なくして存在している。それはつまり、新しいアイデンティティの獲得を意味する。想像した者を失った想像産物はあらゆる束縛から解き放たれ、自由な行動をとることができる。このままでは、行き場を失った想像産物がこの街にとってよくない事象を引き起こすことは必然だ」
「いったいどういうことが起きる?」と僕は訊いた。
「いや。それはもはや可能性の問題じゃない。既に起きてしまっている。つまり、俺の管理している倉庫の鍵が何者かに奪われたんだ。つまり、俺は俺の役割を失ってしまった。このままでは思惟は分解されることなく、思惟は街に溜まり続ける」
「そうなると、どうなるの?」と沙希は訊いた。
「思惟の暴発が起きる。お前ら、1980年に起きた静岡駅前地下街爆発事故を知っているか?」
「知らない」と僕は言った。僕が生まれる何年も前のことだ。知っているわけがない。
「1980年の8月16日の朝、紺屋町の国鉄静岡駅北口側の地下街で爆発があった。多数の死亡者がでた。負傷者も223人という大規模な事故だ。警察たちはメタンガスと都市ガスによるガス爆発事故と論理的な結論を出しているが、実際のところまったく違う。あの時も同じようなことが起きた。倉庫が機能しなくなり、人々の思惟が溜まり続けた。行き場を失った思惟は、大きな爆発事故を引き起こした。今回は、その爆発よりももっと深刻な事態を引き起こすことは確実だ。何故なら、倉庫に入るための鍵がなくなってしまったわけだからな。あっという間に思惟は溜まり、そして暴発するだろう」
「どうすればいい?」と僕は訊いた。
「今、倉庫の鍵のスペアキーを作っているところだ。と、言っても普通の鍵じゃねえ。これはあんたたちには詳しく言うことができないが、ある特殊な方法で鍵を作っている。だから、それができるまでにはまだ少し時間がかかるんだ。だから、鍵が完成するまで、あんたたちに街に溜まっている思惟を解体して欲しいんだ」
「どうやって、思惟を見つけ、解体するんだ?」
「思惟は街の至るところに存在している。少しだけ見せてやろう」カサイはそう言ってカウンターの下においてあったアタッシュケースを持ち上げた。以前、凸凹の警察官コンビに職務質問を受けたときに彼が持っていたものと同様のものだ。彼はケースをゆっくりと開けた。そのなかには直径5センチメートルほどの黒い繭のようなものが1つだけ入っていた。
「これが、思惟だ」とカサイが言った。「これを壊してくれればいい」
「どうやって壊せばいいんですか?」と僕は訊ねた。
「ちょっと触ってみな」カサイは、にやりとした。
僕はアタッシュケースの中に手を突っ込み、黒い繭に触れようとした。しかし、驚くことに僕の手は黒い繭を貫通し、アタッシュケースの底についたのだ。
「触ることができない」と僕は呟いた。カサイがクスクスと笑うのが聞こえた。
「私もやってみる」と沙希が言い、アタッシュケースに手を突っ込んだ。しかし、僕と同じように沙希も黒い繭に触れることができなかった。
「いったいどういうことだ?」僕はカサイに向かって言った。
「もはや、お前らは街の思惟のなかに閉じ込められているということだ。つまり、この世界は想像力によって全てが支配されている。だから、想像力によってこれを破壊しなくてはならない」
「いったい、どうやって?」
「この世界は想像力によって構築されている。だから想像力によって世界を改変することができる」とカサイは言った。
「改変?」と僕は訊いた。
「まあ、見てろ」とカサイは言って、僕の目の前に手を差し出し、パチンと指を弾いた。すると、彼の手には小さなキッチンナイフが握られていた。彼はそのナイフを手にもって、得意げな顔をした。「このナイフは現実には存在していない。つまり、俺が想像した想像上の産物にすぎない」
「まるで手品みたいだ」と僕は言った。
「確かに手品に見えるかもしれないな。だが、これは手品じゃない」カサイはナイフを一振りした。その瞬間、今度は音もなくナイフが消失した。そしてもう一度、パチンと指を弾くとナイフが現れた。
「これは俺の想像力によって生み出されたものだ。この具象化されたナイフで……」そう言って、カサイはそのナイフでアタッシュケースに入った黒繭を突き刺した。その瞬間、黒い繭は音もなく、その場から消失した。
作品名:ベイクド・ワールド (下) 作家名:篠谷未義