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ベイクド・ワールド (下)

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第十四章 贋物の世界にいる本物の私と、本物の世界にいる贋物の私



 夕暮れ時、家路を急ぐ人々が行き交う静岡駅の改札口前に僕と沙希はいた。もちろん、僕たちの目的はこの街が抱える謎を知っているというポークパイハットの男・カサイに会うことだ。
「ポークパイハットのカサイという男について、君は何か思い出せない?」と僕は沙希に訊いた。無論、この質問は何の意味も持たない。なぜなら、彼女は既に『シンセカイ』における『軸』を失ってしまっているからだ。
「分からないわ」と沙希は言った。それから何かを考えるかのように首を傾けてから言い直した。「分からない……というのは正しくないわね。正確には、思い出せないわ」
 想定内の返答だ。僕は落胆もしなかった。
「そうか。やはり、軸はもうここにはない、というわけだね。ここは、もはや僕たちの知らない新しい物語のなかってことかな?」
「それはまだ分からないわ。それを知るために今日、私たちはあの自称・占い師に会いに行くわけでしょう」
 僕は首を振った。「自称・占い師じゃない。自称・霊能力者だよ」はたして、この訂正に意味があるのか僕には分からなかったが、とっさに口にしてしまった。
「どっちでも同じようなものでしょ」
 まさにそのとおり。そんなことはどっちでもいい。とりあえず、彼に会い、僕たちは彼から話を聞かなくてはならない。

 僕と沙希は北口の階段を下り、ティッシュやチラシを配る人々を交わし、怪しい勧誘をする中年の女を無視し、前へ前へと進んで行った。学生、サラリーマン、OL。僕の視界にはそれぞれ様々な役割を担っている人々が映り込んでくる。学生の集団は横並びで大騒ぎをしながら我が物顔で道を闊歩し、サラリーマンの集団はうまい飲み屋は無いかときょろきょろと辺りを見回し、一方でOLの集団はお洒落な落ち着けるバーを探す。まるで小説の物語に登場するステレオタイプのような人間たちがこの現実の世界には溢れている。そのような光景を眺めて、僕はふと思った。僕の役割とはいったい何なのか、と。しばらく考えてみても、一向に答えなど浮かんではこなかった。
 吹き抜けのある地下広場を抜け、まっすぐ進むと、彼の姿が視界に映り込んだ。黒スーツにポークパイハット、首に『霊感あります (自称)。 お悩み、ご相談、なんでもござれ。』というプラカードを下げた初老の男。カサイだ。彼はいつもと同じ格好で、いつもと同じ場所に立ち、いつもと同じように無表情だった。しかし、僕たちの存在に気がついたのか、彼はこちらに視線を向け、少しだけ表情を崩した。やはり、彼は僕たちのことを知っているのだ。僕は言葉を発さずに警戒した。
 彼は満面の笑みを浮かべ、僕たちに向け、言葉を発した。「ある意味で、初めまして、アルビナと沙希。ムシカからは聞いてるんだろ? そうだ、俺がカサイだ。あんたたちとは実際に会って話したいと思ってたぜ」
僕は適切な言葉を取捨選択し、彼に質問をした。声が震えないように、注意を払いながら。「どうして、あなたは僕たちのことを知っているんですか? それから、ムシカとあなたはどのような関係にあるんですか?」
「まあまあ。それは、これからいくらでも話してやるよ。この街が抱えている問題を含めてな。あんたたちにも頼みごともあるしな」
「頼みごと? 何?」と沙希は訊いた。
カサイは沙希の質問には答えなかった。「とりあえず、もっと話しやすい場所に移動しようじゃないか。アルビナ、お前金は持ってるか?」
 何故、金のことを聞くのか意味が分からなかったが、僕は正直に答えることにした。「1万円くらいなら、もっていますが」
「よし、充分だ!」カサイは笑みを浮かべた。
「何が、充分なんですか?」
「お前は馬鹿か? 青葉横丁でおでん食いながら話をしてやるから、お前が金を払うんだ。いいな」
 なんて、いい加減な男なのだろうか。しかし、ここは彼の言う通りにした方が良かった。彼から話を聞かなければ、僕たちがするべきことなどまったくもって分からないのだから。

 青葉横丁は、青葉シンボルロード近くにある路地裏に立ち並ぶおでん街のことだ。狭い横丁に赤ちょうちんを掲げ、昭和のようなレトロな雰囲気を醸し出している。
「おう。じゃあ、ここにするぞ」とカサイは言い、『三河屋』という暖簾を掲げた店に入っていった。僕と沙希は黙って、彼に着いて行った。
 店内は人が溢れ、騒々しかった。会社を終えた多くのサラリーマンたちは顔を赤くしながら、日ごろの鬱憤を晴らすかのように大声を上げていた。僕たち三人はカウンター席に座った。左から、カサイ、僕、沙希という順番。
「おーい、ビールを一杯。それから、ウーロン茶を二杯だ」カサイはカウンターの向かいにいた中年の男性店主に言った。
 店主は「あいよ!」と威勢のいい声をあげて、注文を受けた。
「カサイさん」と僕は言った。「あなたが知っていることを教えてください」僕はいち早く僕らが抱えている謎について知りたかった。
カサイは舌打ちをした。「そんな、焦んな。すぐ分かる。まずはビールだ。ビール」
「はいよ、お待ち!」後ろから女性の声がした。おそらく店主の妻だろう。女性は満面の笑みを浮かべながら、盆に載せた飲み物を僕たち三人に配った。カサイはビールを受け取り「久々のビールだぜ」と喜々した表情を浮かべた。
 僕は心のなかで大きなため息をついた。本当にこの男が今起こっている謎について知っているのだろうか。僕は到底信じることができなかった。
「取りあえず、乾杯だ!」カサイはビールを持ちながら、僕の目の前に差し出した。僕はウーロン茶を手に取り、乾杯をした。続いて、沙希も同じように乾杯をした。カサイはビールをごくごくと一気に飲み干した。
「やっぱり、ビールはうめえな!」カサイはそう言ったあと、店主に向かって「ビール、もう一杯だ!」と言った。
 先ほどと同じように店主は威勢のいい声で「あいよ!」と言った。僕はその様子に痺れを切らし、もう一度彼に訊ねた。
「早くあなたの知っていることを教えてください」語気が強くなったのが自分でもよく分かった。
カサイは頭を掻いてから、僕たち二人を見た。「そんな慌てんな。カリカリしてると禿げるぞ。もちろん教えるさ。俺の役割についてな」
「役割?」
「ああ、そうだ。俺の役割。お前がアルビナとしての役割を持ち、沙希が軸としての役割を持つように」それから何かに気づいたかのようにカサイは言い直した。「いや、沙希はもはや軸としての役割を失ったわけだがな」
 僕は沙希が軸を失ったことについても彼が知っていることに驚かずにはいられなかった。しかし、表情を変えないように僕は注意した。沙希を見ると、沙希は軸と書かれていた太ももを眺めていた。確かに、そこには黒い呪いは既になかった。
「では、あなたの役割は何なんですか?」と僕は訊いた。
「俺はこの街の倉庫の管理人だ」
「管理人?」
「ああ、そうだ。俺はこの街が抱えている思惟(しゆい)を閉じ込めるという役割を持っている」
「思惟?」